学会は信心一途に
きょうは地区部長以上の集まっている幹部会なのだから、こういう席で話をするのではなくて、自分のへやにいるのと同じ気分で、ゆっくり話をしたいと思うがどうだろうか。
創価学会という会ですが、この会が、二万世帯とか五万世帯ぐらいの時なら問題ないが、五十万世帯になり、まさに八十万世帯になるというと、いろいろと問題が出てくる。
創価学会を、今日までもってきた私の理由は、宗教で金もうけをしているやつが世の中にいる。立正佼成会にせよ、霊友会にせよ、宗教で金もうけするなんて、これはもっとも罪悪であり、インチキだと私は信ずるのです。
こういうインチキ宗教どもを、ひとつ退治してやろうというのが私の根本精神なのです。
宗教で金もうけするぐらいかんたんなことはない。おさい銭をあげろと言うのです。インチキ宗教のやり方は、功徳をもらうには元手がいる。だから金を出して神を拝めば、倍にも三倍にもなって出てくるから出せ、出せと言うのです。
そう言われると、もっともだと思うだろう。泣く泣く、皆は、ない金をはたいて出すでしょう。そういうことをして、信者をだまして金をとる。
これくらい、世の中にかんたんなことはない。やりたければやってもよいが、必ず地獄へ行くから、やってみたまえ。それがいかんというのが、私の精神なのだ。
そうすると困ることが一つあるのです。仏教のうえからいって、日蓮大聖人様の御書を読んでも、はっきりするし、釈迦の学説を聞いても、はっきりするが『お布施を出せ』ということがある。
大聖人様は、お布施を出せとはおっしゃらない。しかし、法華経の行者を供養した者には功徳があるとおっしゃっている。そうすると、出さねばならないような気持ちが出てくる。
どうですか。これが邪宗教の起こるもとになってくる。悪いことをするやつは、この原理だけ使うのです。日蓮大聖人様でないものが、大聖人様のような顔をして金を集めるから邪宗教だろう。
日蓮大聖人様もお釈迦様も、けっして、社会事業などやってはいない。釈迦が社会事業をやったのを聞いたことはない。日蓮大聖人が道路を直した話も聞いたことがない。
さて大聖人様は『銭一貫文給び畢んぬ』と御書におおせられている。悪いやつは、そこだけ、真似をするのだ。
だが、その後に書いてあるところを読んでごらんなさい。仏法とはこういうものだ、お前の生活はこういうものだぞとおおせになっている。私は御書に書いてある、あとのほうの信心を、ちゃんとやらなければならんと、こう考える。
今日まで、それをやってきました。
ほんとうの法華経の行者に供養するのなら、これはまた別です。もし日蓮大聖人様がここにいらっしゃったら、私など、裸になっても御供養してしまう。これはほんとうの信心からくるものである。
そこで、今度は、私自体が問題になってくるのです。創価学会が参議院に三人も出し、また五十万世帯も持ちますれば、今度私のところへついてくる人間は、創価学会というものを利用したら、どれだけもうかるかというやつで、それが研究されているのです。
私見:悪しく見れば、まるで今は中国のことではないか。北京大学の「池田大作研究会」を皮切りに、山東大学云云 中国・遼寧省の大連大学が「池田大作研究センター」を設立等、中国共産党は唯物でしょうから金と権力を目指すために創価学会を利用するのか?)
そうすると、戸田城聖というものは、動くわけにいかなくなる。もし私が一つ動けば、おかしなことに利用されるおそれがある。地獄へ行くつもりならば、なにもこわくありません。
私は仏さまのところへ行きたいのですから、大聖人様にしかられるのはいやなのですから、そういうインチキなものと絶対組まないと思うから、本部にいても、総本山へ行っても、断じて動かないことに決めている。
さあ、そこで、今度そう考えてくると、世の中というものは、金と権力です。戦争中にはこれをどういったか、あなた方も知っているでしょう。『星とサーベルと顔』こう言って、あなた方を戦争にやったのでしょう。
創価学会にも、地区部長級になると、私のこのいちばん心配している問題にひっかかってくる。地区部長という位置につくと権力が出てくる。
戸田は会長だからといって、権力を使いませんぞ。おれは会長だからおまえら金を持ってこい、物を持ってこいとか言いません。君らのなかで、私になにか、くれたい人がいるかも知りませんけど、断じてもらいません。
さあ、そこだ。地区部長ともある者が、考えなくてはならないところが、そこなんです。
金と権力が、この世の中なのだ。
ですから貸借問題が起こる。金を貸してはいけませんとは絶対言いません。ただ問題は、創価学会の地区部長とか班長とかいう位置を使って、金のことや権力を振り回してはいけないと私は言うのです。『おれは地区部長だ、おれは班長だ。金がいるから貸せ』。そんな生意気なことがあるか。学会の位置を使っての金銭の貸借は断じていかん。学会の位置を使って権力を振り回してはいかん。創価学会は、信心一途にいくものだと私は考えるが、どうか。
私には権力もありません。創価学会の会長として皆さまにたてまつってもらってみても、生まれをたずねれば漁師の子供です。どこに偉いところがありましょう。創価学会の会長なんて、なにも偉くはありません。
私が偉くないというのだから支部長でも、地区部長でも同じく偉くないと思うのです。
地区部長級などに『先生』というやつがいるのだ。婦人部の常任委員だとか、なにが『先生』ですか。カマボコ屋のおやじが先生、下駄屋のおやじがいつ先生になったというのだ。恥ずかしくないか、どうですか。
たとえ、言われても、御本尊様のおかげで言われたのでしょう。そう思うたら、御本尊様に、涙を流してお礼を申し上げなければならぬと思うのです。
地区部長だ、班長だという権力と位置を利用して金を借りたりするのは断じていかん。
事業家は金をもたなければならない。政治家は権力をもたなければならない。しかし、学会は信心をもって構成し、運営しなければならないというのが学会の精神であり、私の精神なのです。
ほんとうに、信心なら戸田と太刀打ちしても負けるものかという相手なら私も受けましょう。私はなにも、金にも驚かない、権力にも驚かぬ。だが信心だけはこわい。
だが、私は、信心には自信がある。私に反抗してやれるものなら、やってごらん。不肖な私だけれども、日蓮大聖人様のお使いとして、七百年後の今日きたのでありますから、創価学会なんてインチキだ、でたらめだというなら、言わしてやろうではありませんか。どんな結果になるか、断じて負けません、私は。三年かからずに、必ず結果をみせてあげる。
これが信心というものです。金でもなければ、権力でもない。学会の位置を使って、金のことや権力の行動をしたなら、必ず罰を受けるということを、きょうは宣言して、私の話を終わります。
昭和32年2月28日
本部幹部会
豊島公会堂