組座談会の運営

 

 今、財務部長から、財務のほうのお願いがありましたが、もらうほうばかり一生懸命で、どこへ使っているのかと思われたら困りますから、その出費の概要だけを申し上げます。そんならおまえは、収支決算書でも発表したらいいではないかと言われるかもしれません。

 

 私は、それがいやなのです。自分で使うから、収支決算書を出すのがいやなのだと言われるかもしれませんが、どういうふうに御書を読んでみましても、御書のなかには、収支決算書はないのです。会社にはあるのですが。

 

 この前、大講頭という職名がお山に決まりまして、私も、全国大講頭のひとりになったんですが、お山へお金をあげたら、収支決算書を出せという大講頭がおった。それで私はけんかしたのです。ふざけるな! というのです。

 お山へ金を供養して、坊さんがどのように使っても、使ったほうの罪で、出したほうの罪ではないですから、そうでしょう。どういうことでも、お山から収支決算書を出したということはない。だから、それはいかんと言った。私も、私がへたにその金を使えば、罰は私に出る。だから、それは使いませんが。

 

 現在やっている仕事は、総本山に百貫坊と蓮東坊と二つの坊、千十八万五千円の仕事をしております。御了承していただきたい。まだ建たないのです。旭川に寺が一か所、大阪に寺が一か所、約千六百万の仕事をいたしておりますから、金がたりないのでございますけれど、財務のほうの金がなくとも、ないと、けっして愚癡は申しません。

 この洋服を質に入れても、質に入れれば金利がつくから、売っても、断じてやってみせるつもりであります。御後援いただいた金は、そういうほうに使っているのですから、よろしく御了解いただきたいと思います。

 

 今、質問会を通じて聞きましたが、まだ方法論のうちにはいっている。そのまえに、ここに集まっている方たちは、みな地区部長級であるという意図を私に理解させてもらいたい。皆さんの学会における位置というものは、私の任免の範囲にある。班長の任免権は支部長にある組長の任免権は地区部長にあることは、もちろん承知だと思う。

 

 今、幹部全体が組単位の折伏にはいっている。なかには、こういう連中がいるそうだ。今度、組長単位になったのだから、班長はそこへ行って、すわっていればいいのだという話を聞いたが、よほどバカな班長を支部長は任命したものだと思う。少なくとも私の任命した地区部長はそういう頭の悪いものはいないはずです。

 

 私は、組単位の座談会と言ったので、組長単位の座談会とは断じて言っておらない。組単位の座談会であるから、そこへ地区部長がのぞもうと、支部長がのぞもうと、その座談会にのぞんだ人がすぐ指揮権をとって、そうして、じゅんじゅんと道を説き、法を説くべきはずである。

 

 組長がやったらいい、私はみているからなどと、そんなバカな話がどこにある。

 それを、堂々と支部長の前で言ったバカがいるそうだ。班長でいるそうです。支部長は頭が悪いために任命を誤ったと思う。

 

 組長の任命は地区部長に任せてある。その組長が、満足な組座談会の運営もできない者は、地区部長の頭を疑う。質疑応答において『私のつくった組長、組が動かない』なんていうのは、恥ずかしくもなく、地区部長たるものが、よくそういうことが言えると思うが、諸君はどうだい。

 自分の任命した組長だ。なにゆえ、そこに、自分の信心をふりかえってみる心持ちがおこらないのであろうか。

 御本尊様がありがたい、この御本尊様以外は人生は救うものはない。自分もこれによって救われたのだから、人も救っていかなければならんという確信があれば、理屈もなにもないでしょう。

 

 自分の信心を、ほんとうの信心を組長に訴え、組員に教えていく以外に方法がどこにあるでしょうか。こうやったら組長が動くだろう、こうやったら組員が動くだろう、こうやったら自分が班長から信用をうけるだろうという作為は、創価学会においては絶対ないのです。

 

 信心が大もとで、自分はこうして信心して、こうして幸福になったからと、その信心を教えるのです。聞かなければしょうがない。どこまで憎まれても、うらまれても、これを教えるのだというのが創価学会の魂であり、精神なのです

 

 方法もなにもあるものですか。まことの信心、まことに自分が受けた御本尊様に感謝、これを訴える以外に方法はありません。それをやるのです。しかも、自分のつくった組長だという責任感をもちなさい。そうすれば、あとはなにも説く必要はない。そう思いませんか。この心持ちにおいて、組長のご指導を諸君らに頼みます。よろしく。

 

昭和31年9月29日

本部幹部会

豊島公会堂