冥益を信ぜよ

 

 いつも私は、どうか一日も早く、皆さんにしあわせになってもらいたいと思っているのですが、やはり、これは、時を待たねばなりません。だからといって、それでは困るとあせってみても、しんぼうせねば功徳はでてこない。私の体験として、いつも功徳が出ない出ないとブツブツ言っていたものが、しだいに文句を言わなくなったので、聞いてみると、最近はすべてうまくいっていると答えます。

 

 この御本尊様を拝みますと、わが心田に仏の種がおろされたことになるのです。これを下種というのです。いったん種をおろさせると、その種はすくすくと伸びさせなければならない。そこで、あなた方が、自分から功徳を見いだせるまでのあいだに、諸天善神が助けてくださることになっている。これはちょうど、われわれが自分の田畑に何百万円もする種を植えた場合に命がけで風雨にたいしても守り抜くようなものだ。

 

 しかし守るといっても、われわれの畑はとくに悪いから、いかにりっぱな南無妙法蓮華経の種がよくても、きょう、あすによい芽が出て、すぐ大木になるというわけにはいかない。それには年月がいる。あなた方が赤ん坊を生んで『先生、御祈念してください。もうきょうで三日目ですが、小学校へ行くようにならないでしょうか』と言っても無理です。

 

 周囲の者が大事に守れば、だまっていても本人が育っていくように、功徳も同じく目にみえないうちに大きくなってくる。いったん植えた仏の種は、拝んでさえおれば必ず大木になる。その時は、功徳がいらないといってもどんどんでてくる。まだ大阪には、白木君がきてから四年ですが、四年以上の信者は少ないと思う。しかし、これが七年となり十年とやった時には、大阪には、ひじょうに功徳をうける人が多くなることが、私には目にみえている。

 

 十年のあいだに、途中でやめた人と、ふらふらやった人と、しっかりやった人とをくらべてごらんなさい。十年たった時に、ああ損をしたといっても間に合わない。十年という月日は惜しいものだ。しかしその間は、あわてないで、しっかり信心をやり通してみなさい。必ず功徳がでてくる。

 

 そのわけは、日蓮大聖人様はわれわれを幼稚と言っている。幼稚園の生徒のようなものであり、まだ小さな、わけのわからない赤ん坊なのです。ですから、大聖人様は諸天善神をつけて、われわれを守るようにしてある。

りっぱな大木になるまで、もうひとり立ちしても、堂々と生活できるまで、諸天善神をわれわれの回りにつけ、必ず困らせないように、きちっと守ってくれるようになっている。

 

 このなかの人から、七年だとか、十年、十五年目だとかいう日が早く見たい。どれほど幸福な人ができるか、その日のくるまで、がっちりと、水のような沮々たる信心を続けて、功徳を楽しみにしていなさい。

 

昭和31年9月27日

大阪支部結成大会

大阪韓民会館