組座談会で戦おう

 

 末端教育ということを、長いあいだみんなで言うてきました。ところが、ことばで末端教育ということをいって、いままでは、末端の教育ができているつもりでいました。しかるに、今度、組座談会を中心にするということを言いだしたら、あわてること、あわてること、たいへんだ。なにか、とんでもないことでも始まったみたいに思っている。

 

 それというのも、今の幹部、地区部長諸君にしても、二代目という人が多い。会長が二代目だからしようがないけれども、人のつくった地盤で地区部長になり、地区部長のイスにでんとすわった形が多い。自分がひとりから地区を育ててきた人は少ない。だから、組座談会だなどというと、とんでもないことが始まったみたいに思う。

 

 私は初代会長以来、組座談会ばかりやってきた。行くというと、ふたりか三人しかいない。きょうは集まりがいいというときで、二十人ぐらいなものでした。そのなかに、たいてい反対の者がそうとういる。そういう座談会が、ほんとうの座談会なのです。

 

 それが最近のように『これから座談会を始めます』『司会は、だれだれでございます』『南無妙法蓮華経』『さあ、終わりました、日本男子の歌』などと、そんなのはなかった。ふたりでも三人でもおれば、そこで御本尊様の話をして、そして、皆、感激に満ちて帰って行く。それが今の班や地区ができた発祥です。だから、なにもめんどうなことはないのです。

 

 ところが、それが徹底しない。末端教育が、なにも徹底していないものだから、地区へ行ったら、組座談会開いて行ってみると、ひとりもいなかった。あるいは、ひとりしかいなかった。これはなんだか、がっかりした気持ちになるが、末端をほんとうに教育するには、これ以外にない。

 

 ですから、私も来月、というとあすからなのですが、どこときめることなしに、自身も組座談会へ出るつもりであります。また、本部の幹部諸君にも、ぜひ出てもらうつもりです。そうなってくると、班長さんは、ずっと、からだがあくのです。

 

 きょうは幹部会だ、きょうは班長会だ、きょうは組長会、きょうは地区部長会だ、そのなんとか会、なんとか会というのに、アゴを出してしまっている。折伏どころのさわぎではない。

 

 自分の組が十組しかなければ、月に十日あればいい。十日も、そのなかに忙しければ地区部長さんに行ってもらう、あるいは班担当に行ってもらう、あるいは地区担当に行ってもらえば、三日も行けばたくさんになってしまう。自分の仕事もできる。また個人折伏もできるということになる。

 

 支部なら支部で、いったい組長が何人いるか、三千おります。今月の折伏世帯は幾らか、千二百。いったい組長は何をしているのか。三千名の組長がいて、千二百世帯しかなければ、あとの千八百人の組長は、なにもしていないことになる。

 いったい、組長といって、つくっていたほうも悪いのだ。組長が自分の組で座談会をやるときに、六人いるところに、ひとりしかこなかった。それでは組長だっていうのが、おかしいではないか。

 そういう組長をつくって平気な班長もおかしければ、それを黙っている地区部長もおかしくないか。それで組座談会だなどというと、さあ、たいへんなことが起こった、とんでもないことでも起こったみたいに思っている。

 

 そうなると、組長から言わせれば『なんだい、この座談会に、あんな地区幹事にきてもらってはたまったものではない』とか『なんだ、支部幹事づらして、あんなうるさいのがきては困る』とか、そんな苦情がくると思う。諸君たちは、好かれているように思っているが、案外きらわれている連中が多いのです。

 

 なかには、こういうことをやりかねない人もいますからね。地区部長だなんて威張って組座談会に行ったら、三人しかきていない。『なんだ、三人しかきていない、そんな組長なんているか』なんて言う人がいるかもしれない。そういうことを言う地区部長がいたら、いかなる理由に関せず、支部長に頼んで、ぼくのほうからやめてもらおうと思う。

 

 法華経のなかに『法華経をたもつものあれば、立って仏がきたように迎えをせよ』と言われている。いったい、三人だって同志がおったら、喜んで話し合って帰ってこなければならない。

 たったひとりでもいい、ひとりでも、そのひとりの人に、ほんとうの妙法蓮華経を説く。たったひとりでも、自分が心から話し合い、ふたりでもいい、感激し合って帰るくらいの座談会にしてほしい。

 たったひとりでも聞いてくれる者がある。ひとりの人に会えばよいのである。

 

 さきほども自分の組にさっぱり集まらない組長があって、三組合同しなければならないといっていたが、いったい幹部は、そんな組長をつくった自分の責任感を考えなければならない。ひとりも集めてこられないような組長がいるのなどは、組長なんていわないで組といったほうがいい。組長といえば、なにか下があるでしょう。いなかの学校ではあるまいし、校長兼小使なんどと。組長兼組員だなんて、そんなのはない。

 そういう組長兼組員だけしかないので心配でたまりませんなどと、そんなことは冗談にも言うものではありません。

 組長にしたのは、組員がいるから組長にしたんでしょう。だれがいったい組長にしたんです、そうでしょう。

 そう考えてみれば、ではこの三人から十人にしてみよう。まじめな十人の信者ができましたら、御本尊様はどのようにお喜びになるか。今、われわれは御本尊様中心でなければならない。

 

 支部長が腹をたてようと、地区部長がむくれようと、御本尊様がお喜びになれば、それでいい。それを、さも自分の地区の名誉だとか、あるいは地区部長が偉いとか、そんなことは問題ではありません。そんなことを威張っても、御本尊様はおほめになりません。

 最後までわれわれの頭にあることは、御本尊様、御本尊様がお喜びくださった。きょうはたったひとりのおばあさんと話し合ってみる。あのおばあさんが喜んで帰った、ああよかったな、こういうことになる。それでいい。

 

 きょうは、あの組長は遅刻してきた。班長が呼びつけて、うんとおこってやらなければならんなどと、家へぷんぷんして帰ってくる。なんだ、座談会に行って修羅になって帰ってきたみたいだ。それを、ちっとも恥ずかしいなんて思わない。かえって、家へ帰って女房をとらえて『女房、一パイだせ』などと、これでは、ちょっと、どうも、格好がわるいと思う。

 

 われわれは最初、組座談会をやった時は、ひとりかふたり、あるいは三人のため遠いところまで出掛けたものです。そのもとへ戻って、まじめに組員を育ててもらいたい。

 そうすれば、あなた方の地区には、組長が百人いたら、二百や、四百世帯の折伏は、楽にできるはずなのです。それを、組長教育もしないで、班長を集めてふんぞりかえって、そうして威張りくさっているクセがついているから、班長は『ああ、そうですか』と聞いて帰ってくるだけ。

 

 なかには、班長あたりに、こういうことを言うのがいるらしい。手のたたきかたがわるいとしかられるから、拍手するときはパッパッと、威勢よくたたけという。

 

 冗談ではありません。寄席に行ったのではあるまいし。形式に流れてしまい、地区部長さんをお迎えするとか、支部長さんが行くからと、支部長さんをお送りしなければだめだとか。

 

 冗談ではない、地区部長や支部長はなにも偉くない。会長だって偉くないのです。同じ人間ではないか。なんにも偉いといって、特別に偉い者がいるわけではない。ぼくなんか、会長になってやめたいのに、君たちがやれやれという、皆が会長になれば、さっさと引き揚げたいのです。

 

 ただ、今、私がへたにやめると、また御本尊様にしかられて、罰を受けるとたいへんだから。いやだからやめるなどと、やめるわけにはいきません。死ぬまで続けなければならんと思いますし、やっていきます。

 

 君たちのためにやらないと、御本尊様にしかられるのはこわいから。ほんとうですよ、御本尊様にしかられるぐらいこわいものはないのだから。嘘だと思うならしかられてみたまえ、ひどい目にあうのだから。

 

 あなた方も幹部になった以上は、もう腹をきめて、ほんとうの修行を組座談会でしてください。そして、ほんとうに苦労した地区部長、ほんとうにみがきあげた幹部、そういうものに、ひとりひとりがなっていただいて、おほめくださるのは御本尊様。

 

 支部長なんかにほめられているなんて思っているのはバカです。支部長なんかにろくなのはいないから、支部長なんかにほめられるのはなんでもない。犬のしっぽのしっぽのほうなのだから。おせじさえ言えばほめるんだから。そういう、たいてい頭のわるいのが支部長になるに決まっているのだ。そういうのを見習って地区部長も頭のわるいのに決まっているのだ。

 

 断じて人間にほめられてはいかん。御本尊様にほめられるようになろうではないか。また人間に、いくら悪く言われても、人間にいくらしかられても、御本尊様にしかられないようにしようではないか。

 

昭和31年8月31日

本部幹部会

豊島公会堂