折伏は心豊かに

 

 最初に折伏のことについて申し上げます。まえまえから申し上げておりますが、折伏は、心豊かな信心のうえで、指導してもらいたいと思います。

 

 折伏をさせなければなりませんが『今月のあなたの確信は何人でございますか』などと、選挙ではないのです。『いや私は三人折伏いたします』などと、そんなことを言わせる必要はないのです。そんなことを言わせて、本人は今月三人折伏をしなければならないと思い込みますれば、心に負担を感じます。三人やらなければならないと思い込んで決心してしまう。そうなれば、いきおい心が苦しくなる。そんな必要はないのです。心豊かに信心させて『御本尊様はありがたい』と思いますれば、だれにあっても、自然にそのことばがでてきます。そのように信心していけば、生活が心豊かになってくる。

 

 それが『おとうちゃん、きょうもやらなければだめよ』と、おやじのほうはおやじのほうで『困ったな、今月はひとりもできない、困ったなあ』と、なにも困ることはないではないか。できなければしかたがないではないか。そういうふうに、自分の班とか、自分の地区とかのために折伏させるということは絶対にないように。

 ただ、相手方のしあわせのために折伏しなさい。これが根幹です。

 

 ところが、なかには、折伏のできない人もいる。口べただとか、気があまりよすぎるとかこういう人は折伏はできないが、喜んで信心をしている。それならそれで、そうさせておけばいいのです。それを『あんたは折伏しなければだめ』とこんなことを言う人がいる。だめだって、本人ができなければしょうがないではないか。本人が御本尊様はありがたいと思っているなら、それでいいのです。ただその人を、ほんとうに信心させるようにすればよい。そうすれば、自然、その人は他の人に言います。それが、そのまま折伏になるのです。

 

 大阪へこのあいだ行きましたら、一般の質問会で『私は折伏ができない。何人に話しても信心しない。どうしたら、いいでしょうか』と聞かれた。どうしたらいいでしょうではない。それでいいのです。人に聞かしているだけで、それは折伏であり、聞法下種になるのです。すぐ功徳はでる。

 また入信者をわざわざお寺へ連れて行って、そして御本尊様を受けさせまして、御本尊様を、くる人に賛嘆している。『ありがたい、ありがたい』と賛嘆している。これで折伏になっている。

 

 それを、なんでもかでも、紙に判をついたものをもってこなければ、折伏でないと思っている。そういうふうに指導しますと、窮屈になって、なにか借金したみたいになってくる。そういうふうではいけません。

 

 だから『折伏、折伏』というのは、この班長を集めて地区部長が『確信を聞きましょう』と言う。『なんだ、三人だ?もう少しやりなさい』などと。

 

 そんなことをやっている地区は、さっぱり折伏ができない。班長でも、地区部長でも、おだやかに信心のことだけを一生懸命教えて、そしていっしょに信心していきましょう、おたがいに信心して金をもうけましょう、からだも丈夫になりましょう、家庭もよくなりましょうと指導しているところは、なにも騒がなくても、伸びているのです。だから、班長なり地区部長なりは、そこをよくよく心にいれて、豊かな信心をさせてやってもらいたいと思います。

 

 次は指導のことでありますが、指導があまり枝葉にわたりすぎているように思うのです。

 生活指導、これは枝葉です。指導というのは、信心がどれだけできるか、いかなる難事にぶつかっても日蓮大聖人様の教えと取り組んで、そしてその難を乗りきるのです。そういう指導が、ほんとうの指導です。

 

 失礼な言い分でありますが、支部長諸君にしても、地区部長諸君にしても、班長諸君にしても、人生の生活指導をできるなどというのは、生意気だと私は思う。会長自身だといったって、そんなことを言っては生意気です。

 

 できるわけないではないか。どだい、やれ、ひとりは借金の相談だ。ひとりは不渡りの相談だ。ひとりは女房と夫婦げんかの相談だ。ひとりは病気の相談だ。そんな、医者ではあるまいし、弁護士ではあるまいし、商売人ではあるまいし、枝葉ばかりやっていたら、世の中のことをすベて知っていなければ、指導できないではないか。

 いや、おれはできるという人があったら、そのひとはよっぽど偉い人です。世俗的な、ノーベル賞をもらってもいいくらいです。できるわけはない。

 

 そういう枝葉を知ったかぶりして指導するよりは『困っているのですか。いよいよこうなったら御本尊様以外ありません。さあ御本尊様にすがって、あなたの、これはと思う方法でやってごらんなさい。それしかありません』これでいいのです。

 

 それから、病気のことならなんでもないのだから『医者はなおせますか、なおせませんか』『どこの医者にかかってもだめです』『ああ、そんなら、もう大丈夫です』と。『御本尊様を一生懸命拝みなさい』それから、医者でなおる病気は三つあるのですから『そんなら医者にかかりなさい。そしてなおしなさい』

 

 それでいいのでしょう。医者ではあるまいし、病気のことの指導とか、どの薬を飲みなさいとか、いや、どうとかしろとか、医者のやるようなまねをしなくてもいいではないか。そういうことは、医者にまかせておけばよい。

 

 そうでしょう。あまり枝葉にわたる信心の指導はしないように、自分に確信のあることは別ですけれども。そういうふうに言ってあげるようにしなさい。

 

 次は文化活動のことでありますが、文化活動ということは、私は、ひじょうにいいことだと思っているのです。学会で選挙をやるなどということは、まことに、りっぱなことだと、私は思っているのです。陰でこそこそやるなどということは、絶対にする必要はありません。

 

 なにゆえかというに、理由は二つある。一つは世間法から、一つは仏法のうえから。それは、学会は、私は選挙運動が毎年あったらいいと思っているのです。ないから残念です。そのわけは、選挙をやるという一つの目的をたてると、みな応援する気になります。そこでしっかりと信心させなければならん。学会は、金で選挙に出させるのではないから、はじめから信心によるのですから、信心の指導をしっかりやらなければならん。

そうすると、幹部が夢中になって、班長君でも、地区部長君でも、信心の指導を真剣にやってくれると思うのです。

 

 そうすると、いままでかせがない人が、広宣流布のために、これは立ってやらなければならん時がきたから、まあ皆、目の色変えてかせぐ。ふだんやらんことをやるから、支部がピーンとしまってくる。選挙は、支部や学会の信心をしめるために使える。まことに、これは、けっこうなことではないですか。なにも、こそこそやる必要はない。堂々たる信心のうえの行動であります。

 

 次は、国法、世法のうえからみたならば、われわれの選挙は公明選挙です。公明なる選挙、金なんか使うのではないのだから。いくら候補が金を使いたくたっても、ありはしないのだから。やりたくたってないのだから。

 

 学会に金のあるわけがないではないか。きみら出した覚えはないだろう。また会員をみてごらんなさい。だいたい、みな月賦組です。だから金なんか使いません。公明選挙です。今、学会をのぞいて公明選挙をやる議員さん連中がどこにあります。こんなりっぱなことをやるのに、なにも、こわがることはないのです。私は、りっぱなことをやっていると思うのです。

 

 まあ、皆さんがそうだから、そういう恥ずかしい点は、私もはいるかもしれませんが、日本人という者は選挙なんかに、ろくに行った人はいないのです。頼まれれば行くけれども、いくらかもらって。これは、まことに国民の権利を捨てるものである。その権利を捨てないことを教えるのは、選挙運動ではなく、啓蒙運動である。

また、りっぱな人材の人に、選挙権というものは、投票するものであるということはとうぜんです。どこをもって、りっぱであると判断するか。信仰がりっぱであるからといっても、なにもおかしいことはないでしょう。こんなりっぱなことをやるのに、なにを恐れて、なにをこわがる必要がある。また、選挙すべきはとうぜんのこと。とうぜんのことを、とうぜんやるにすぎない。

 

 仏法のうえから論じ、国法のうえから論じ、世法のうえから論じて、堂々たる行動を行なうのだから、創価学会は、なにびとたりとも恐れない会です。新聞をごらんになれば、学会のことはぜんぶ出ている。今こうやって、どうするこうすると。学会はなにも悪いことはやっていないのだから。立正佼成会ではないのです。土地なんか買っていませんから、安心してください。珠数やタスキを千円で売っていませんから、なにも心配することはありません。国家を救済せんがための創価学会なのだから、堂々たる信心と、堂々たる確信のうえに立ってやろうではないか。

 

昭和31年3月31日

本部幹部会

豊島公会堂