ふたりで始まる組座談会

 

 初代の会長から教わったお話をしてみたいと思います。それは、座談会の形でありますが、初代の会長の座談会のしぶりと、今の新しい方々のしぶりとは、大きなへだたりをつくっているように思われます。

 

 たとえば、ある人が座談会の司会を受け持って、六時から七時と、ぽつぽつ集まってくる人を並べておいて、七時半ごろに、ようやく集まった時に『さあ、これから座談会を始めます』と、あらたまって質疑応答ということになるらしい。同じことばかり言っているので、聞いているほうでは飽きてくる。同じことを言っても、じょうずに言えば飽きないのだけれども。

 

 初代の会長の座談会のしぶりは、自分が真っ先に行って、ひとりがくると、ひとりと話し合い、ふたり目がくるとふたりと、三人くると三人と話し合って、そのまま座談会が行なわれていく。じつに懇切丁寧に教えてくださる。

 同じことばかりしか言わない方でしてた。先生が新しいことを言われると『これは、三か月ばかり聞かねばならん』と覚悟を決める。しかし、同じことでも、いつも変わって聞こえるのです。だから、先生が仕込まれた方たちは、なかなかよく仕込まれています。

 

 また、相手が聞きたいことに返事しないで、これをしなければ罰があたるといい、生徒がこの数学を教えてくださいと言っているのに、こんなものができなければバカだという。子供は、バカかりこうかなど批判を聞きたいと言っているのではないのです。座談会でも、どういうわけですかと聞いているのに、なんでも信ずればいいのだ、信じなければバカだ、罰があたるという。そこは、ていねいに指導してやったほうがよいと思います。

 

 今、理事長からお話がありました常住御本尊様の件でありますが、これだけ多い人数では、いただくのもむずかしくなってきました。このたび、御法主猊下にお願い申し上げて、一千幅の常住御本尊様を下付くださるようお願いしました。しかし、今月お願いしたら来月いただけるというわけにはいきません。猊下が、ていねいにきちんとおしたためになる。もったいないことであります。日に十枚書ける、二十枚書けるだろうというのは、もったいないことで、猊下のお心の澄みきった時のおしたためなのですから、まあ一年ぐらいかかると思ってよいと思います。

 

 今の猊下は、十年間、猊下になられてから一度も丑寅勤行をおこたられたことのない、すっかり仏さまになっておられる方であります。この方のお筆をいただくことは、もったいない限りだと私は思っております。

今、聞くと、常住御本尊様をいただくと罰があたるというが、こういうことはありません。一家の家宝です。

 

 昔の旧信者は、何幅もいただいたものがあるが、たいていろくなことはない。一幅でよいのです。この一幅を守りとおしていくのであります。御供養を千円とか、三千円と申し上げましたが、御供養はわれわれの真心であり、必ずしも三千円とは決まっていないのですから、一万円でも、五万円でもいいのです。そういわれると、三千円のほうがよくなってくる。

 

 御本尊様のお下げ渡しの御真意というものは、昔はお金を差し上げて、御本尊をもらい下げたりしたものではないのです。功労のあるものに御下付くださるのを原則としております。今も学会精神は功労をもって趣旨とします。ですから、推薦の方も、それによることでありますから、うらみやひがみのないように、一千幅の中にもれた方は、またあらためてお願いしてあげようと思いますから、あまり気をおとさないように。

 

昭和31年2月28日

本部幹部会

豊島公会堂