良き法・良き師・良き檀那

 

 法華経に無上の宝珠、すなわち宝の珠です、それを不求自得、求めずして、おのずから得る。無上の宝珠とは、大御本尊様のことを申し上げるのであります。

 

 あなた方が御本尊様を求めていたのではなくて、今はこのようにすわっていれば、折伏などはあたりまえのように思うけれども、信仰をはじめる前には皆反対したのです。なかには、そうとう長いのもいたのだから。

 

 それは求めずして、おのずから得たので、求めなかったのです。無上宝珠不求自得、また時に応じてこの関西本部を求めずして御法主猊下から大御本尊様をいただいた。関西に本部を造ろうとは思ってもいなかったし、考えてもいなかった。ここに大御本尊様を迎えて、これこそ無上の宝珠・不求自得となったのです。

 

 大聖人様のおおせられるのは、祈りは必ずかなう。それには時がある。良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。

 

 ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります。

 

 私は金持ちにも、へつらいません。どんな位の高い人にも頭を下げません。仏法のことに関する以外の者には、けっして頭を下げないのです。金があるからといったって、金など自分の使う分だけあればいらないものです。

 

 金があったって、使いようがない。きょうも、ある人に話をしたのですが、金がいらなくなってきて、私は御法のためなら生命もいりませんと言う。それなら、だれに好んで頭を下げなければならないのだ。

 

 あなた方が大阪の本拠を守ってくれる。まことにありがたいと思っています。あなた方を、けっして軽蔑するわけではありませんが、今度のことは、じつにありがたいと思っています。仏さまにほんとうに真心をもって仕えておられるあなた方を尊敬してはおりますけれども、いくら私に頭を下げても、へつらいません。

 なにも信仰してくれと言ったおぼえもないし、あなた方から、どうしてもらったといったおぼえもないのだから。勤行なんかしてくれなくたって、いっこうさしつかえない。ぼくはひとりで歩くのだし、ひとりでくるのだから。文句を言いたければ、勝手に言うのだし。あなた方にそうしてもらうことは、なにもありません。また、へつらいたくもありません。

 

 そうなれば、私はお山のために引き受けるのです。私だけやらずに、寄付もみんなやれやれというのだから、良き檀那にはいると思うのです。この良き檀那の地位として私は御本尊様のお下げ渡しの願主として願っております。ですから、このたびのあなた方へ、この大御本尊様を拝むことによって功徳があることを信じてやまないものであります。

 

 だから大阪の人々は、この大御本尊様を拝んで功徳をじゅうぶんにもらいなさい。病気もなおればよいし、金もじゅうぶんもうけなさい。信心をまっとうして、りっぱな幸福者になってください。それが私にたいするりっばなお礼なのです。

 

 へたなお菓子をもってきたり、へんなものを持ってくるのはよしなさい。家にたくさんあるのですから、これくらいに。これをもって、きょうは訓示にかえます。

 

昭和30年12月13日

関西本部入仏落慶式

関西本部