真の供養は功徳の源泉
わが日蓮正宗は、ほとんど滅びかけていた。地方の寺院は、どこへ行っても、やぶれ畳で、総本山は農地改革によって、いままでの年一千俵もの小作米がはいってこなくなり、もったいなくも、御法主猊下もお悩みの状態で、あの尊い大御本尊様をいただきながら、まさに日蓮正宗は滅亡に瀕していたのであります。私はその罪は戸田にありと感じ、なにがなんでも、日蓮正宗を興隆しなければならないとつとめてまいりました。
幸いにも、皆さんの御協力を得まして、地方に寺院が建ち、奉安殿ができ、宿坊ができ、いまや、わが日蓮正宗は、日の出の勢いになってまいりました。これは、皆さんの純真な信心より出たものと、厚くお礼申し上げます。
これに反して、身延は七転八倒の苦しみをしております。この七百年祭に、大勢、参詣人を集めようと思って銀行から無理して借りた借金が返せなくて困っているし、どんどん信者は減る一方です。このあいだ、落選代議士が、そろって身延にお参りに行ったところ、宿のおやじが『どうも、このごろは創価学会が盛んになったので、お参りが少なくなって困る』とこぼしていたそうです。私は断じて身延にペンぺン草をはやしてやりたいと思います。
地方へ行きますと、どこへ行っても、地元の人から『先生、寺はいったい、いつ建ててくれるのですか』と聞かれる。来年上半期までにやりたいのは、岡山と広島で、できるだけ皆さんの手を借りないで、私どもの力だけでやりたいと思うのですが、このたびの寺院建設だけは、ひじょうに急ぐのです。それで、どうか協力していただきたいのです。
ここで困るのは、信心の確立していない人です。ただ寄付を出せというのではなく、ほんとうに供養することが自分の得になるのだということをよく理解させてもらいたい。法華経にある一切衆生喜見菩薩という方は、あらゆる供養を仏にしたが、それでも、まだ仏の恩に報いることができないと考え、自分のからだを燃やして供養された。その功徳によって、生々世々、大王の家に生まれ、仏道を行じて、何代も幸福に生活したということです。
また薬王菩薩は、あらゆる神通力をもって仏に供養したが、これでも、いまだたりないと自分の両ひじを七万二千年のあいだ燃やして、ついに手がなくなった。弟子は、師匠が不具になったと嘆いたが、薬王菩薩は、もし仏に供養をささげて仏になれるなら、私の手は必ずもとどおりになると言って笑った。はたして、たちまちのうちに手はもとのとおりになったということです。
ましてや、わずかばかりの供養を、うらみをもって出すようなら、なにもならない。させないほうがよい。ただ自分が供養すれば、必ず、それが戻ってくるという信心のあり方に立って指導をしてもらいたい。
いま、ここに貧乏な人がいるとする。私たちは、あの人に出させるのはかわいそうだと考える。ところが、出させることが、すなわち真心からの供養こそがその人の功徳になるのです。供養させなければ、その人の貧乏は打開できない。無慈悲なようだが、この勇気が必要なのです。
気の毒に思うのは、小乗教、大慈悲に立つのが大乗経の立ち場です。ここが皆さんの観心の問題です。このような腹構えで誤解のおこらぬように、皆に功徳を受けさせるよう指導してください。
昭和30年9月30日
本部幹部会
豊島公会堂