宗教と人生

 

 宗教というものは、けっして、遊び、あるいは気休め、あるいは修養のためにやるものではないのです。この札幌のような文化の土地では、どうしても、宗教というものは修養だと、こう考えたがる悪いくせがあるのです。

 

 よく、大学あたりで勉強した人と話し合いますれば、宗教というものを、ただ人生の気休めか、修養かと、考えきってしまっているのです。これはたいへんな誤謬なのであります。

 

 しからば、宗教とはいかなるものぞや。これは、経済学という学問は、経済というものを対象にした学問です。医学というものは、病人を対象にした学問です。病気を対象にした学問です。また、数学というものは、数量というもの、数というものを対象にした学問です。

 

 このように、皆、分野が違っている。しからば、宗教は何を対象にしたものか。それは人間の生命それ自体を対象にしたものが宗教なのです。宗教とは、われわれの生命の問題というものを対象にして、しかも、この哲学は、今、大学で勉強している若い人たちがやっている哲学、すなわち帰納哲学とはぜんぜん反対の演繹哲学の分野にはいるのです。めんどうなことばを言いましたが、生命の問題になりますと、まず大きな不思議さが、ここにあるではありませんか。

 

 なぜ私はあんな親のもとに生まれたのかということ、これが不思議のひとつになります。なぜ私は貧乏な家に生まれたのか。なぜ私はこんな弱いからだで生まれたのか。なぜこんなに頭が悪く生まれたのか。こういうふうに、自分の生まれた時が、まずおかしい。それから二十年、三十年、四十年の生活のうちに、どう働いても貧乏する。だれもこのんで病気をしているものはない。肺病になりたいと思って、肺病になったものはいないはずです。

 しかるに病気になったり、あるいは、夫婦が死に別れたり、かわいい子供に死なれたり、さんざんな思いがある。

 

 それなら、世の中はみんなそうかというと、そうではなくて、お金持ちで暮らしている人もある。じょうぶでいる人もある。きりょうのいい人も、また悪い人もある。

 いったい、この差別が、どうしてできているのであろうか。これはいかなる医学をもってしても、これはわからない。これは、仏法においては、完全に闡明(せんめい)されている。解明されている。それは、どういうわけかというと、われわれの生命は永遠なのです。これがまず第一番の、この哲学の根底なのです。

 

 われわれの生命は永遠である。これから演繹していく。それなら、それは勝手に決めた命題ではないか。こういうのですが、これを説明するのが、仏法の哲学になっているのです。しかし、今晩ひと晩で、これからわずか十五分か、二十分のあいだに話せといっても無理なのです。

 

 これは、仏法上に空という考え方があるのですが、空ということは、無ということではないのです。この空観という、その考えかたから、思索の一歩を進めていくのでありまして、あなた方は、永遠でないといったって、事実が永遠なのだから、知らないということは、無いということとは違うのです。で、この説明は別にして、まず永遠ということを、今後、教学をやる方々は、そこへ思索をもっていってください。

 

 ところで、永遠であるということは、観念的な永遠ではないのです。あなた方は、また生まれてこなければならない。もう、いやでしょうけれども、おいであそばしていただかなければいかんことになっているのです。これを来世というのです。

 それからまた、過去世というものがある。来世があるならば、過去世があったはずなのです。三世の生命、永遠の生命ということは、仏教の根幹なのです。

 

 だから、これが、徳川幕府時代の、あるいは明治初期の迷信、生まれ変わるとか、霊魂があるとか、幽霊がきたとか、死んだおばさんがでてきたとか、そういうわけのわからない、あるいは巫女だとかという、ああいう、じつに愚劣な迷信というものが充満して、真実の仏法が影を失った長いあいだの歴史が、教えというものにあらわれ、わが民衆は皆びっくりしてしまって、そして、絶対にそういうことはないということにしてしまったのです。

 

 ですから、今、三世の生命、過去だ、未来だ、現在だということを論ずる人が、日本にいないのです。言えば、なんだ迷信のことを言うのではないかと、こう言われるのがこわくて、またわかっていないので、そのことを言うものがいない。

 

 私は、しかし仏法上の事実であり、いや、われわれの生命の実相でありますから、私は、敢然と言いきるのです。

 

 この原理からいきますれば、過去世になしたことが原因となって、現在に幸福になったりしあわせになったりするのです。またしからば、どうすればいいかと、仏法でいう解決は、過去世において、悪いことをしたから今世において悪いことがおこったのだ。過去世によいことをしたから今世によいことになったのだ。だから、現在によいことをして、来世によくなればいいのだと、こういうふうなのが一般仏法で、釈迦仏法で言っております。

 

 しかし、そんなまどろっこしいことをしておれません。だから、事実において、これは信仰しない人には、これはぜんぶあてはまる。

 たとえていえば、前に人殺しをした。あるいは、生き物を殺すことが好きであったという人は、この世では、早死にで、病気が多いということになる。そういう人が、ここにいるのではないですか。過去世において泥棒した人は、今世においては貧乏で、失敗と。そうすると、過去世の泥棒も、ここにはいそうです。

 

 だが、それなら、今世において布施行を行なって、来世において金持ちになろう。今世において善根を施して、来世にじょうぶになる。どうです、皆さん、これだけで納得できますか。これがいっさいの、もっとも釈迦仏法を丹念にやる人たちが言うことなのです。

これでは、まことにどうも、私はいやなのです。前の世でしたといっても、覚えていないのですから。それで今世で貧乏という宿命をおわせられて、死ぬまで、貧乏では、たまったものではない。ところが、これは釈迦の仏法では助けようがあるのです。

だが、末法になってくると、釈迦の仏法の功力がありません。釈迦にだれも縁のないわれわれなのですから、助かりようがない。

 

そこで、日蓮大聖人様は、偉大なこの生命哲学の原理によって、偉大な力をおつくりになったのです。それがすなわち『御本尊様』というのです。御本尊様を機械と申し上げては、もったいないと思いますが、じっさいに機械だと考えたらどうですか。じつにもったいない、それこそ貴重なる機械をおつくりくださったのです。

 

 それは、御本尊様とも、曼茶羅とも申し上げます。これはどういう功徳があるのか、どういう効用のあるものか。こういう効能書を、まず話すとすれば、この御本尊様を受持して、そして、南無妙法蓮華経と唱えますれば、過去世につくっておかなかった、金持ちになる原因、過去世につくってない、そのつくってなかった原因を、即座にやるということになっているのです。御本尊様から、そこから出てくるのです。ですから、私なら、もうこの世で、貧乏しなければならないという宿命をもっていたとする。御本尊様を拝む、そうすると、金持ちになるという原因を、もう私は、からだにつけてしまった。だから、必ず金持ちになれるに違いない。また、現世でじょうぶになるという原因のない人も、御本尊様を拝むことによって、現世でじょうぶになるという原因を即座にいただくことになる。

 

 これが、大聖人様が、御本尊様建立の時のお約束なのです。御本仏のお約束なのです。『この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う』と、こういう面倒なことばですが、これは、今、言ったことの文証なのです。観心本尊抄に、はっきりとお約束があるのです。

 

 ですから、よくこういうことを、夕張で言った男がいるのです。『信心して病気がなおるということは、合点がいかん』『これは、とんでもない話だ』と。かんたんな説き方でわかるはずです。仏は、なんのために世の中に現われるかといえば、仏というものは、一般民衆の苦悩、苦しみを救うために現われるのです。仏の出世というものは、一般大衆の苦しみを救うということにある。それ以外に仏の仕事はない。

 

 しからば、病気しておって、それは苦しみです、それを救えなかったら、仏というわけにはいきません。貧乏で困っているのに、それを救ってくれなかったならば、仏というわけにはいきません。民衆の苦悩、今、日本の国の苦悩というものは、貧乏と病気ではないですか。うちのなかのごたごたや、夫婦げんかなんか、ほんとうに、まだ、ぜいたくな悩みの内にはいります。おやじさんが失業して、食えなくなったから、夫婦げんかなんか、ますますやる。しかし、夫が死にそうだ、女房が死にそうな病気になっていれば、これはやらないでしょう。ぜいたくのうちにはいります。

 今のところは、まずまず貧乏と病気です。これを、仏さまがおられて、お救いにならないわけがない。われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し遺されてある。

 

 これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。

 だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益が出ようがないのです。ありませんから、やってごらんなさい。七年もしたら、どんな顔になるか。いや、いままでやった人の顔をみてごらんなさい。

 

 ですから、私の願いとするところは、この弘安二年の十月十二日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです。学会精神のこわれるようなことは絶対ないのです。

 

 しかしめんどうです。ちょっとやそっと、おまえ、そこで十五分ほどやってみろと言われても、それは浪花節ではないのですから困る。

 ですから、この御本尊様を受持して『釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う』というお約束をそのまま信じて、しあわせになって暮らしてもらいたいと思うのです。

 

 また、広宣流布について言うならば、これは一日も早くやっておきたいと思う。なぜかならば、この広宣流布ということについては、この大聖人様のためだとか、日蓮正宗のためだとか、学会のためだとかというものではありません。今、ソ連に原子爆弾がある。今、アメリカに原子爆弾がある。万一、この二国との間に、まだここ五年や十年はなさそうに思うけれども、この二国の間に、もし戦いが起こったとしたならば、日本の国だけ安閑としているわけにはいきません。もしソ連の爆弾にもせよ、アメリカの爆弾にもせよ、まず北海道はいちばん早いのです。三つぐらいもってきて、ドカンとやられてみなさい。さよなら言っているひまもない。さともいわないうちに、ぱーっと、消えてしまうのです。

 

 これは政治の力により、あるいは、外交の力によって、できるだけ、そうなってはあいならんようには、皆努力するでしょうけれども、いよいよとなった場合には、仏天の加護なくしては、これは絶対のがれるわけにはいかないのです。

 

 仏天の加護を受けるためには、日本国じゅうともに、皆、日蓮正宗の大御本尊様を拝み、広宣流布しておかなければ、その時に、仏天の加護はありません。ですから、私は、それを思うと、一日も早く、これは大衆のために日本民衆のために、国家のために、一日も早く広宣流布をしなければならんと、悩むしだいなのであります。

 

 願わくは、過去世になかったところの、釈尊の因行果徳の二法を身に受けて、人間革命をするとともに、進んでは国家大衆のために、信心を、いっそう励んでもらいたいと思います。

 

昭和30年8月24日

北海道地方折伏講演会

札幌市商工会議所