なぜ信心をするか

 

 信仰というものは、修養のためとか、あるいは、気休めとかというために、するのではない。信仰して、利益、すなわち、生活上のしあわせがなければ、やっても、むだです。

 

 今、こちらへきて、聞いたところでありますが、仏立宗と天理教が、夏季折伏とかいうものをやっているそうです。夏季折伏というのは、学会の専売特許であって、彼らのやるものでないと思っていたら、マネをしないと落ち着かなくなったとみえて始めた。いくら始めてみても、功徳のない彼らの信心では、必ず負けるにきまっている。

 

 今、日蓮正宗が、なぜ、このようにみんなに認められるかというのには、確たる理由があるのです。日本の国の人々がみんな困っている、その困っている時に功徳があるから、ひろまっていくのです。理屈や、学問でひろまるのではないのです。御利益でひろまるのです。

 

 それなら、どうして御利益があるのかといいますれば、これは日蓮大聖人様のお約束なのです。

 

 それについて、一言申し上げますが、人間というものは、どうしてこんなに差別があるかという問題なのです。

 

 同じ生まれるならば、金持ちの家に生まれて、からだがじょうぶで、頭がよくて、同じもらう女房ならば、きれいで、働き者で、頭がよくって、同じもらう亭主ならば、がっちりしていて、頭がよくて、そして親切で、そうありたいと、だれしも思うのですが、なかなか思うようにはいきません。

 

 同じはいる家ならば、あまり広くなくてもいいけれども、三十坪ぐらいは最低にしたいものだと思う。こう思うが、まあ、八畳の二間に、六畳の二間に、応接間に、女中部屋ぐらいと、お風呂があって、水洗便所でというようなところが、まあ理想的です。ところが、なかなかそういうふうな人は、たくさんいない。いないわけではないのです。このなかには、あまりいない。みんな、そうでしょうけれども。

 

 また、商売するなら、お客さんがどんどんきて、毎日毎日お金が残るほうがいい。月給取りなら、たくさんもらったほうがいい。ところが、なかなか、そのようにならない。たいていは逆になっている。

 また、じょうぶでいたいと思っても、病人になる。あるいは病人ができる。

 

 この差別は、いったい、どうしてできたのかという問題なのです。これは、科学では究明できません。これを究明してあるのが仏教です。

 こういうふうに結論づけられている。これは、通途の仏法でありまして、だれもが認めているところであります。

 

 この問題の究明の根本は、三世の生命論からきているのです。あなた方は、これが、この世っきりだと、思っている方もあるかも知れませんが、この世っきりではないのです。また、この次生まれてこなければならないのです。この次、また人間として生まれてくるとすれば、前の世にも、また人間であったことを認めなければなりません。『そんなことは、おれは知らない。そんなことは私は知らない』と言っても、いかにあなた方が知らなくても、生命の実相は、そのとおりなのでありますから、知ると知らずにかかわらず、事実の問題なのです。

 

 この三世の生命観、これは、今、日本広しといえども、だれびとも、恐ろしくて言えないのです。なぜ言えないかというと、徳川時代の、劣等仏教が、この迷信をこしらえてしまった。それを、科学する人たちは、その迷信を打ち破っている。

 仏教徒のなかでも、いくらか知っている人があっても、この過去の迷信仏教と混同されるのが恐ろしくて、あいつは迷信を言うのだと、そういうようなことを言われると困るものだから、言わない。いくじがなくて言えないのです。また、日本の大半もそうです。まず九分九厘までは、知らないといっていいのです。

 

 また、これを説明をする力がありません。なぜかならば、霊魂説やなにかで説明しても、それは、嘘であります。仏法の空観ということを、はっきりとつかんでいない限りにおいては、説明のしようがないのです。だから、この説明については、教学の問題で、いろいろとまた、あなた方が勉強していくうえには、わかるでしょうから、また、きょうは時間がありませんから結論的に言います。

 

 たとえてみると、過去世において、殺戮を好んだもの、殺すという、生き物を殺すということを好んだもの、やむなく殺した場合ではないのです。殺すということを好んだものは、この世では多病で早死にということになっています。

 

 それから、過去世で泥棒したものは、今生では貧乏するということになっております。そうすると、ずいぶん、ここに過去世の泥棒が……、そう喜ばなくてもいい。

 

 ところで、それならどうすればいいかというと、今度は今生において、布施をし、善根を積んで、来世においてしあわせに生まれてくると、こういうふうになっている。これが、今、仏法を信じない人は、皆この生き方をしなければならないことになっているが、だれも善根を積む者がないから、来世はますますひどくなるにきまっているのです。

 

 大聖人様が、これでは、かわいそうだと、おぼしめしあそばされたのです。そこに日蓮大聖人様の仏法と、釈迦の仏法との、根本的相違があるのです。

 

 これが『種脱相対』という学問でありますが、これはめんどうなことですから抜きますが、これなどは、身延などは、つゆほども知りません。身延のいかなる偉い坊主といえども、この種脱相対の本義は、絶対に知っていないのです。

 

 ましてや、百年ぐらい前にできた仏立宗などは、鼻クソの先を、百万分に割ったほども知っているわけはない。まして、仏教を研究したこともない、天理教のような与太者が、どうしてわかるはずがあるでしょうか。

 

 これをわかるのは日蓮正宗だけなのです。そこで大聖人様は、末法の衆生をかわいそうに思われて、どうなさったかといいますのに、これはいかん、末法の衆生には過去世にりっぱな行ないがないと。

 それであるから、これを捨てておいたならば、その貧乏、あるいは病気、あるいは、いろいろの不幸をそのまま背負って死ななければならない。それではかわいそうだ……、そうおっしゃった。

 

 文底秘沈の大法と申します大御本尊様をおあらわしになったのであります。そして、この大御本尊様を受持すれば、過去世においてつくらなかった……、今、貧乏しております。今、貧乏しているが、その金持ちになる原因は、過去につくってきていない。つくってきていないが、この御本尊様を受持することによって、過去世につくらなかった、金持ちの原因をくださるという約束がある。原因を即座にくださるのです。

 あとは自分の信心と、折伏によって、結果を勝ち取らなければいけない。

 

 今、病気で、ひどい大病で、難病で、医者が見放すような病気、あるいは医者の見放した病気、そういう病気を、しなければならない宿業をもっている。この御本尊様を受持するならば、過去世にじょうぶでないという原因があるのだから、その原因はとって、じょうぶになるという原因を、即座にくださるというのです。

 

 これは、御本尊様のことを、縷々ご説明くださっている観心本尊抄という御書のなかに『この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う』という約束がある。この五字とはお曼茶羅のことであります。御本尊様のことであります。このおことばが、私が申し上げたことばなのであります。

 

 ただ、この御本尊様は、富士大石寺にしかないのです。ですから、ほかの寺々で、どんなうまいことを言っても、どんなことを言っても、絶対に富士大石寺の御本尊様しか、功徳がないということは、この御書において明らかなのです。

 

 ですから、あなた方が、この御本尊様を受持して、きちんと信心をりっぱにしまして、折伏を行じておれば、必ず、必ず、しあわせになることを、私は誓っておく。

 

 安心して、折伏をしなさい。功徳は必ず出ます。すなおな信心をしなさい。必ず功徳が出ます。また、あなた方が、しあわせになるために、熱心に折伏をし、信心をしていれば、しぜんに広宣流布の時がきます。

 

 しかし、広宣流布は、一も早くしなければならんと、私は思っております。なぜかならば、ソ連の原子爆弾、また、アメリカの原子爆弾、いずれにもせよ、二国たがいに争うようなことがあれば、北海道などは、まずしょっぱじめに一発くらうことになる。一発ですめばいいけれども、三発ぐらいきたら、皆さんなどは、さよならと言おうとしたって、サとも言わないうちに、さあっといなくなってしまう。

 

 これは、政治の力、外交の力をもって、どうかのがれようと、われわれはあせるでありましょうし、国家もあせるでありましょうけれども、政治や外交の力で、逃げることのできない状態に、私はなると思う。

 

 その時こそ、仏天の加護がなくして、どうしてその難をのがれることができましょうか。仏天の加護を、国家のために、仏天の加護を願おうとするならば、一国謗法であっては、仏天の加護はないのです。ですから、一国謗法の罪をのがれるために、一日も早く広宣流布をしなければならない。

 

 さて、そこで一言付け加えておくことは、今、函館へきてみたら、仏立宗が夏季折伏だ、あるいは、天理教が夏季折伏だと、日蓮正宗創価学会のマネをして、そういうことばを使っています。聞く人は、昔から仏立宗に、そんなものがあったのだと思うかもしれません。

 

 今度は、彼らは、きっと広宣流布は仏立宗でやるのだなどというかもしれない。あそこは、そういうマネをするのが好きなところなのです。

 さあ、そうなると、迷う人があるかもしれない。そうだ、創価学会、日蓮正宗だけで広宣流布するなどというけれども、ほかでもやってもいいのではないかと。広宣流布だなどと、身延がきっと言いだすかもしれない。身延でもやってもいいのではないかと、こう思うでしょう。だが、ほかでは絶対だめなのです。これだけは、絶対、日蓮正宗でなければだめなのです。

 

 そうすると、なんだ、またそんなことを言いきっておって、ほかのをだめだというために、そんなことを言うのだろうと、こうあなた方は思うでしょうが、広宣流布の暁には、大聖人様が御存生中に、広宣流布ができたならば、紫宸殿へかざって、時の天皇に拝ませなさいと、予言をなさっておつくりになった紫宸殿御本尊という御本尊様があるのです。

 この御本尊様は、もし身延で広宣流布したとして、天皇陛下が、持っておいでとおっしゃっても、ないのだから持って行けません。

 だから、身延には広宣流布する資格がないということが、はじめからわかっている。ましてや、仏立宗や、立正佼成会や、霊友会のような、このごろできたてのニセ日蓮宗などはあるわけがない。

 

 この、紫宸殿御本尊のある寺こそ、広宣流布をする寺なのです。それが、この紫宸殿御本尊というのは、七百年も近く、富士大石寺に、厳然として奉持し奉っているのです。

 この一事をもっても、われわれ日蓮正宗の者は、広宣流布をしなければならない責任があるということになっているのです。

 だから、彼らが、また三、四年すると、広宣流布だなどとまねをしだした時に、この一事をもって、きゅっと押えてやらなければいけない。こういうことを、お伝えしておきます。

 まあ、これだけで、あとは、あなた方が、しっかりと信心をして、功徳をうけますように。一応これで私の講演は終わる。

 

昭和30年8月23日

蒲田支部函館地区総会