因行果徳の二法
宗教というものは、何を対象とした学問かというのが問題です。経済学は経済というものを対象にした学問であり、また数量というものを対象としたものは、数学という学問と、いろいろあるが、しからば宗教哲学は、何を対象にしたものか。それは人間の生命というものを対象とした学問です。
考えてごらんなさい。いや考えるまでもなく、隣の人間の顔を見れば、みんな違っているではないか。これは、どうして同じ顔に造れないだろうか。
隣の人を見てごらんなさい。頭のいいのもいるし、頭の悪いのもいるし、ふところへ手を入れよとは言わないが、財布のなかに十円しかない者も、千円札を何枚も持っている者もいる。
家に帰っても、四畳半に住んでいる人もいるし、共同便所みたいなところに、はいっているのもいるし、そうかというと、りっぱな家にはいっている者もいる。
この差別は、どこから出てきたか。同じ差別があるならば、上等のほうへはいるには、いかにしたらよいか。
さあ、貧乏人も金持ちもいる。金持ちのほうになるには、いかにしたらよいか。いかにしたら金持ちになるのか。
では、その人のやったようにやれば金持ちになるのではないか。こういう研究が宗教研究なのです。
この研究の大家は、東洋では『お釈迦さま』という人なのです。釈迦はこの研究を大成している。なぜ貧乏になるかと、釈迦の研究をたずねてみたら、前の世に泥棒したから、この世で貧乏するのだと彼は断定している。
そうすると、このなかには、前の世に泥棒したものが、そうとういるらしい。では、金持ちになるには、どうしたらよいか。
それでは、この世ではだめで、前の世で泥棒してきたのだから、この世で貧乏してその罪のつぐないをして、来世に今度は金持ちになるように考えている。このように、三世にわたる秘法の研究が、釈迦仏教の研究なのです。
『なぜ私は、こんなに、からだが弱いのでしょう』『お前は、前の世で、からだの弱いことをやってきたからだ、今、弱いのだから、この世ではからだの弱い人を親切にしてやれば、来世には、じょうぶになる』というのが釈迦の仏教なのです。
どうです。たいしたいい仏教だろう。好きですか……。
私は大きらいだ! 前の世でやってきて、この世でこんな貧乏している。どうにもならないではないか。来世で金持ちになる。そんなの、私はいやです。好きなものはやったらいい。ただし、困るでしょう。前の世でやったことは、自分は知らないことなのですから。
しかし、じっさいそうらしい。いくらなんでも、私はいやだよと言って、おまわりさんのところへ行って『私はいやだ』と言っても、『おやじさん、いやだ』と言ってもだめです。この宿命をどう打開するかと考えてみても、人に聞いてもだめなのです。
ところが、末法御出現の日蓮大聖人様は、前の世でいろいろなことをやってきたわれわれが、かわいそうでたまらない。この世でおまえたちの宿命を打開する方法を与えてやるから、それによって前の世はどうであろうと、この世で幸福になれるとおっしゃって、こしらえてくださったのが『御本尊様』である。
それは『観心本尊抄』という大事な大聖人様の御書のなかに『此の五字を受持すれば釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う』(御書全集二四六ぺージ)とおっしゃった。
『この五字』というのは御本尊様のことであり、この御本尊様を受持すれば、仏さまが過去にやってきた原因、すなわち因行と果徳の二法を与えてやるとのお約束なのです。果徳というのは、因から出た結果のことなのです。
だから私は、今、貧乏しているから、今は貧乏しているということは、過去世に金持ちになる福徳がなかったことになる。そこで御本尊様を拝みまいらせて、大聖人様のお約束によって、過去世に金持ちになる種がなかったのを、なる種をくれるとおっしゃっているから、金持ちになるのは、あたりまえだろう。こんなやさしい方法はないだろう。
前の世は、釈迦に言わせれば、何千年、何万年も修行して、この功徳によって金持ちになったという。われわれは、そんなことをしておらない。
御本尊様を拝んでさえいれば、何千、何万年間も修行したと同じ金持ちになる功徳(金持ちになる原因)をちゃんとくれる約束になっている。それは、もらわないものが悪いのです。
このなかに金のほしい者があろうと思う。
ほしかったら、大御本尊様に向かってお願いするのです。そうすれば、過去世につくらなかった金持ちになる原因を御本尊様がくださる。
さあ、もらったら、今度はそれを育てるようにしなければいけない。朝は早く起きて商売熱心に、一銭でも損をしないように心がけて、御本尊様がせっかくくださったから、粗末に育ててはなりません。おれは種をもらったんだから遊んでいてもいいのだ。それはだめです。これを実らせて、御本尊様のありがたさをしみじみと味わって、一生この世の中を喜んで暮らさなければなりません。
この世の中は、苦労するためにきたところではない。『衆生所遊楽』と言われているように、この世の中は遊ぶためにきたのです。だが、いっぺんも遊んだことがないのではないでしょうか。財布と首っ引きで、たまに遊んだ時は、十五円のおふろへはいったときぐらいのものだろう。温泉なんか思いもよらぬ人が多いのではないか。
この世の中は、女房と遊び、夫と遊び、わが子と遊び、わが親と遊び、楽しみの世界でなければならないのです。
それは理屈ではわかるけれども、じっさい、やってみられないではないか。それをやるために、大聖人様が御本尊様をおつくりくださったのです。これを理屈でわかるために、学会において教学を教えているから、三年ぐらい、みっちりやれば、絶対だということがわかるようになっている。
三年やって理屈がわかるよりも、今、私の言うことを『ああ、そうか』と信じたほうが早いだろうと思います。三年目に『ああ、そうか』とわかるのも、今、そうかとわかるのも、同じことではないか。
だから、今、そうだと思ってやりたまえ。来年もくるかこないか知らんけれども、それまでに、私の言ったとおり、御本尊様を信じて功徳が出なかったら、いくら私をなぐっても、なにをしても、かまわない。
東京へ談判にきてもよろしい。これを信じもしない、折伏もしないで、文句を言ったってそれはだめです。やってごらんなさい。わたくしはそれだけを教えにきたのです。ふだん聞いてはいるだろうけれども、念には念を入れて申し上げる、やってごらんなさいと。これで私の話は終わります。
昭和30年8月13日
蒲田支部名古屋地区総会