現世で宿命打開
世の中の状態を見ますのに、金持ちがいるかと思うと、貧乏人がいる。夫婦仲良く暮らしている家があるかと思うと、けんかばかりしている家がある。そろってじょうぶで楽しくしている家があるかと思うと、病人だらけの家もある。じょうぶな人がいるかと思うと、弱い人がいる。これは、どういうわけであろう。
いまだ、西洋の哲学においては、これは結論づけられてはおらない。東洋の仏教哲学においてのみ、この結論はつけられているのです。
それは、われわれの生命は永遠であるということ。われわれは、この世で死んでも、またこの次に、この娑婆世界に生まれてこなければならん。生まれ変わるのではありません。
きのう生きていた人が、きょう生きているように、今世で生きている人は、また来世で生きてこなければならん。来世を認めると同様に、過去をわれわれは認めざるをえないのです。これが、東洋の仏教哲学の根底をなすものであり、知る知らぬにかかわらず、生命の実相であります。
されば、今日、じょうぶである者は、過去世において、じょうぶであるべき原因をつくったのです。今日、金持ちになる者は、過去世に金持ちになるような原因をつくっておったのです。これが、この、貴賤上下および貧乏、不幸の、あるいは、金持ち、幸福の、根源をついた仏教的解決であります。
だから、このなかに、もし貧乏人がおったとすれば、金で苦労している人がいるとすれば、仏教では、前世に泥棒をしたということに結論づけられております。そうすると、ずいぶん泥棒の続きの人が、ここにいるのではないか。『私ではない、隣の人ではないか』などと、のぞいて見ているのではないか。されば、今生はしかたがないから、来世に、ひとつ金持ちになってやろう、じょうぶで暮らそう、いい女房をもらおう、いい亭主をもらおう、いい子供を生もうというために、今世において善根をほどこし、来世には、必ずそういうふうになる。これが、仏教の根本的理論になっております。
だが、考えてごらんなさい。だれしも、運命の打開ということは望むのです。貧乏人が、これでけっこうだと思うばかはない。病人はこれでけっこうですという人はない。なおりたい。じょうぶになりたい。貧乏人は金持ちになりたい。こう思うのが、あたりまえでしょう。ところが、釈迦の仏法では、今世にはおよばないのです。
今世ではだめだ、来世にいかなければだめだというのです。これはまことに困った話です。もし、仏教の解決がこれだけであるならば、私は、仏教信者にはならない。ごめんこうむる。来世などと、ほんとうになるかならないかわからないのだから。
ところが、大聖人様の仏法は、それから一歩ぬきんでているのです。だから、われわれは『釈迦の弟子ではない。釈迦仏法はだめだ、大聖人様の仏法でなければならん』と絶叫する。
大聖人様は、こういうことをおっしゃっています。『ここに、御本尊様というものをこしらえるぞ。この御本尊様に向かって、南無妙法蓮華経と唱えるならば、過去世につくっておかなかったところの原因を、運命を打開するところの原因を、即座にやる』と、こうおっしゃっている。これは、じつにありがたいことです。
ですから、私がこの世を貧乏で一生送らなければならんという宿命をもっている。ところが大聖人様のおことばをそのまま信じて、大御本尊様を受持して題目を唱えるならば、過去世に貧乏という宿業、原因をつくってあったのが、過去世に金持ちになるという原因をつくったと同じに、その金持ちになる原因をくださるのだと、こういうのです。
これが、観心本尊抄において『この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う』と、こうはっきり約束していらっしゃる。これが嘘なら、大聖人様はウソつきになる。末法の御本仏がウソつくようになったらおしまいです。絶対嘘ではありません。
だから、このなかに貧乏人がいたとする。そうしたならば、御本尊様を信じまいらせて、しっかりと折伏を行ずれば、あなた方がもってこなかった福運が出てくるのです。なぜかならば、金持ちになる原因をくださるのですから。
からだの弱い者だったら、今の世にちゃんと御本尊様を信ずれば、からだがじょうぶになるという原因をくださる。それを因行というのです。果徳というのは、結果の果の徳分です。それをくださる、譲り与えると、大聖人様は、ちゃんとおっしゃっている。だから、弱い者はじょうぶになるし、また、貧乏な者は、金持ちになる。これは、あたりまえのことなのです。
よく、私が御本山において質問会をする。そうすると、いろいろ聞くが、そのなかで、もっともかんたんなのは、貧乏人が金持ちになることと、肺病の初期は必ずなおることの二つです。これは、絶対になおります。だから、金のほしい人は、たくさんいるだろうと思うのだが、思うようにはいらないでいる人もあるでしょうけれども、御本尊様をしっかり信じて、金持ちになってもらいたいと、私は思うのです。どうです、いやですか。
もしも、東大病院で、朝の六時から七時までのあいだにきて、一時間、注射をすれば、必ず金持ちになるという薬が発明されたとしたならば、みんな朝早く起きて行くだろう。そしてもう、一時間でも二時間でも待って、注射してもらうだろう。そして、一年間やったら、何十万でき、二間年やったら、何百万、三年間やったら、何百万、それがほんとうだという医者がいたら門前市をなすだろうと、私は思うのです。どうだい、君らも行くだろう。
それを、東大病院に行かないで、自分の家ですわっていて、朝たった三十分間のお勤めですむのです。汽車賃も、電車賃もいらないのです。いるのは、ロウソクと線香だけです。ずいぶん安い原料ではないか。資本としてはいちばん安いほうです。それを、もごもご言ってやらない人は、バカだというのです。
私が言うように、朝五座、晩三座の信心をきちんとして、断じて御本尊様を疑わないで、信心してごらんなさい。疑ったらだめです。
コップのなかに、きれいな水を入れておく。ひじょうにおいしい冷たい水であります。『ちょっと一粒ぐらい、いいだろう』と言って、うんちを、ちょっと入れたとする。ほんの一粒だが、飲めと言われたら、飲めますか。
御本尊様を少しでも疑う心が起これば、この水と同じことなのです。清浄なる法水が濁る。功徳は出ません。断じて御本尊様を疑わず、折伏闘争に燃えきっていくならば、いかなる願いでも、かなわないことは絶対にない。
私の言うようにして、この次、私が新潟にくるまでに、思うとおりにならなかったら、この壇上で、いくら私をなぐっても、けっても、さしつかえない。この約束をして、今晩の話は終わる。
昭和30年8月13日
向島支部新潟地区総会
新潟市公会堂