受持即観心

 

 日本の国は、今、非常な貧乏の時代です。貧乏人の多い時代です。それは、だれもが認めるところであろうと思う。しかし、貧乏だというけれども、それなら、金持ちはいないかというと、たくさんおります。このなかにだって、財布のなかに十円玉一つぐらいしかない人と、千円札を何枚も持っている人といるはずです。それは、生存競争ということが、世の常でありますから。また、それ以上の問題は、宿命ということがあるからです。原水爆弾が落ちても広島の人がみんな死んでしまったわけではない。死んだ者と、けがした者と、助かった者とある。病人が多くなったからといって、皆、病人ではない。そうなれば、だれもが、金のあるほうへはいりたい。あぶないことが起こったら、死なないほうへはいりたい。病気であったら、病気でないほうへはいりたい。それはあたりまえです。

 

 それが、できることなら、だれしもそうなりたいが、では、どうしたらいいのか。それはなんでもないことです。日蓮正宗の大御本尊様を信ずれば、それですむのです。それではあまり独断的ではないかと、こう思う人もあろうかと思う。だが、いくつも、とうぜん、それはこうなるのだという理由がある。

 

 あらゆる点から説明はできるが、ただ一つかんたんに申し上げれば、観心本尊抄と申します、日蓮大聖人様が御本尊様のことについてお約束なされた御書がある。『この五字、すなわち御本尊様を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う』(御書全集二四六ページ取意)こういうおことばがある。

 

 東洋の哲学、すなわち、仏教哲学におきましては、われわれの運命というものは、どうしてできたか、運命というものをどう打開すべきものかと、こういうことになっている。

 それは、過去世において、善根を積んだ者は、この世でもって金持ちになる、じょうぶになる、美人にもなる。また、それであればこそ、この世で善根を積んで、来世においては、今度は金持ちにもなり、あるいはまた美人にもなり、あるいはまた、からだのじょうぶな人間にもなろうと、こういうのが、釈迦の仏法である。

 

 ですから、この世で貧乏している方には、通途の釈迦仏法におきましては、こういうことになる。

 前の世で泥棒をしたものは、この世で貧乏することにきまっている。そうすると、このなかには、そうとうの前世の泥棒がいることになる。喜んではいけません。泥棒だって言われて喜ぶ人がありますか。それならば、今度はこの世で善根を積んで、来世で金持ちになろう。それは、理屈のうえではけっこうだけれども、私はそれはいやです。私が今、貧乏しているとする。これから善根を積んで来世に金持ちになる。そんなばかばかしいことやっていられません。死んでから先のことではないか。そんな、お釈迦さんの言うことなんか、私はもう用いない。

 

 しからば、末法の御本仏・日蓮大聖人様は、どうおっしゃっているか。この御本尊様を受持すれば、過去世において、金持ちになるところの原因のなかった者も、その原因をやるとおおせられている。原因をもらったり、この世で金持ちになるのは、あたりまえの話ではないか。過去世において、じょうぶでない原因をもった者は、今すぐに、じょうぶになる原因をくれてやると。御本尊様を受持するとともにくれるのです。じょうぶになる原因をいただいた以上には、その結果が出てくるわけなのです。これが『この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳 - 因行とは原因の因と行ないと書きますが、果徳というのは、結果です- の二法を譲り与え給う』というこの約束で、必ず願いがかなわなければならんのです。ですから、日寛上人のおおせには『いかなる願いとしても、その願いのかなわないことはない』とおっしゃっている。これが、大御本尊様の功力です。法力・仏力です。

 

 これを疑うならば、信心しないほうがいい。これを信ずるならば、しっかりとおやりなさい。そして、みんなが、金持ちのほうへ、じょうぶなほうへ、危険の少ないほうになって、喜びのうちにこの一生を過ごしてもらいたいと思うのです。

 

 この世の中は、苦しむために生まれた所ではないのです。この世の中は、遊ぶために生まれてきたところなのです。ゆえに、衆生所遊楽というのです。われわれは楽しんで暮らさなければならないのです。

それを、夫婦げんかばかりしたり、借金取りに責められたり、いらいらしたり、病気で苦しんだり、いったい、仏さまが、末法の御本仏様が約束しているのに、それを信じないで、苦しみとおして死ぬなどというのは、バカの骨頂です。それをみんなに教えてあげて、そして、自分もしあわせになり、人もしあわせにするのを、広宣流布というのです。

 

 このあいだも、あるところへ青年がまいりまして、私と一晩話し合った。たまたま、私もそういう時間がありました。そして、アメリカの原子爆弾、ソ連の原子爆弾、それがどうなるかと、世界の動きはどうなるかということを語り合いました。いろいろと、われわれ人間の智慧で考えては、もしも、ソ連とアメリカが戦争することになれば、日本人は、ほとんど全滅しなければなるまいと思うのです。この時に、政治をどうするか、外交をどうするかと、そういう小さなことを考えても、とうてい、のがれることはできないと思う。

 

 そこで私は、最後の結論として、仏天の加護を祈る以外にないと、こう申しました。事実世界に動乱が起こった時に、日本民族が助かる方法は、仏天の加護を祈る以外にないのです。仏天の加護を祈るとしても、一国が謗法であっては加護はありませんその大危険を目の前にして、安閑として、われわれはおるわけにはいかない。

 

よって、ここに広宣流布をして、その大難をのがれようとするのが、創価学会の広宣流布の目的(のひとつ)なのです。その広宣流布も、なんらの出血を要するわけではない。わが身が幸福になりつつ、そうやっていくのだから、こんなうまいことはなかろう。あなた方がうんと苦しんで、家を貧乏にして、足を棒にして飛んで歩いてそうなるのではないのだから、自分がしあわせになって広宣流布になるのだから、こんなうまいことはないではないか。

 

それをやらないのであればその人が悪い。そういうことを、よくよく心にいれて、信心を遂げていってください。

 

昭和30年8月11日

蒲田支部浜松地区総会