御本尊様は『如意宝珠』

 

 きょう、この総会へ出席された人のなかで、御本尊様を捜し求めて歩き、そして御本尊様をいただいた人はないはずです。いやだいやだと言って逃げ回り、それをたもたせようとする人は、追い駆け回して恨まれたり、悪口を言われたりして、いやだというのに無理に持たせたのです。

 

 求めなかったのでしょう。求めなかったのに、自ら得た、いまは、自ら得ている。これを無上宝珠不求自得というのです。なにがゆえに御本尊様を無上宝珠というかというに、無上宝珠とは『如意宝珠』を意味しているのであります。

 

 如意宝珠とは、心のままに宝を出す宝の珠のことをいうのです。家がほしいと思えば家ができ、金がほしいと思えば金ができ、なに一つとして、心のままにならぬものはないという珠を無上宝珠というのです。その無上宝珠、如意宝珠を求めずして自ら得たのです。それこそ不求自得である。

 

 御本尊様は、しからば、なにごとを求めても得られるか。はっきりと私は申し上げます。いかなる願いも、かなわないことはないのです。なぜ、かなうかと申しますれば、大聖人様のお約束のなかに、この御本尊様を拝して、題目を唱えるならば、過去世につくっておかなかった原因、すなわち、過去世に金持ちになる原因をつくっていないわれわれに、その原因をくれるという約束があるのです。

 ですから過去に金持ちになれないようなことが、もしあったにしても、この御本尊様を拝む時に、過去世に金持ちになる原因をつくった人と同じ資格が得られるのです

 

 原因ができたら、結果ができるのは、あたりまえです。そういう強いお約束が大聖人様にはあるのですから、信心さえすれば、折伏さえすれば、必ず願いどおりになるはずです。ならないというのは信心が足りないからです。折伏をやっていないからです。信心をやり、折伏をやって、思いどおりにならなかったら、大聖人様は天下一の嘘つきである。そう断じて言い得るのです。

 

 しかし大聖人様は嘘つきではありません。末法の御本仏がウソをつくわけがありません。ただ、その約束どおりにならないのは、皆さんが悪いのです。

 

 こうすれば、こうなるというのに、そうしないで結果だけほしがってもだめです。三越へ行ってごらんなさい。いろいろなものがある。あるけれども金を持たないで行ったら、買ってくることができない。金を持って行かずに、ただ持ってくれば、ただちにつかまってしまう。御本尊様は無上の宝珠、如意宝珠であるから、あなた方の願いは、なにごとも、かなうことになっている。それをつかみ出せないのは、あなた方の信力がたりない。行力がたりないからなのです。

 

 したがって、信力が強いものであるならば、それに相応して、仏力・法力も厳然と現われる。必ずしあわせになる。また御本尊様以外に人をしあわせにしてやる方法はないのです。

 

 金なんか、くれてやってもだめです。信心させる以外にないのです。

 

どうか私の言ったことを信用して、この次の総会までには、胸を張って、財布のなかには、帰る電車賃だけではなくて、男の方なら、帰りに一ぱいぐらい……飲めっていうのではないのですが。女の方ならばクリームの一つも食べるぐらい、おみやげの一つも買って帰るぐらいの豊かさと、心の暇をもって出てこられるように希望します。

 

昭和30年7月10日

杉並支部第三回総会

中央大学講堂