演繹哲学と帰納哲学

 

 今、日本国の状態をみますれば、文化が世界の水準より遅れているとは思われません。

 

 われわれの生活に必要なものとしましても、デパートへ行けば、なんでもある。便利なものです。せんたく機械、テレビですか……ほしいと思うものは、ダイヤモンドでも、なんでもある。あるが、思うように買えないというのが、現在のありさまであります。

 

自動車に乗りたかったら、見てごらんなさい。世界じゅうの良い自動車がきているが、しかし乗れない。たまに乗れば、七十円のいちばん安いのである。

 

 また、病院などをみますと、設備が、ずいぶんよくできておって、そして、どこも満員です。病院の満員だけは、日本の国として、ありがたくない。こういうような状態を、なんとか暮らしいい日本にしたいということを、あらゆる人々が考えている。

 なにも、私ひとりの念願でなくて、日本じゅうの人の願いであると思うのであります。

 

 それが、思うようにいかない。あらゆる為政者は、その道によって、それぞれ思索しているが、だめなのです。これはどうしてか。根本問題へ突きつめていっていないからです。

 

 西洋の哲学、西洋の科学というものが、そのまま日本の国にきている。西洋の科学、西洋の哲学というものは、これは帰納哲学であり、だんだんと研究していって、そうして、初めて、これが本物であるというところにもっていく。

 

 東洋の哲学は演繹哲学である。ここに、こういう一つの条件がある。これは、こう行なえば、必ずこうなるのだと結論が出てしまっている。それから説明していくのですから、こっちから、こう上がっていくのは途中である。

 

 世界の哲学にしても、科学にしても、この最高点へ行こうとする途中なのですから、今、この哲学や科学だけによって、人類の幸福を建設しようとしても、途中からはできないのです。この、いちばん端へきてしまったのです。これは行けっこないのです。いつか行けるとしたら、十万年か二十万年かしたら行けるかもしれない。そうなれば、われわれは困るのです。二十万年も生きていられない。早くやってもらわねばね。

 

 徳川時代も、電話はなければ汽車もなく、ラジオもなければ、また自動車もなかった。今は、ある。

 では、徳川時代の人よりも、今の人のほうが、しあわせを感じているかというに、感じていないのです。かえって不幸を感じている。

 

 それは、この途中だからである。ところが、日蓮大聖人様は、ここをきちんとこしらえてしまった。

 御本尊様を拝め、御本尊様を受持しろ、御本尊様を信ぜよ、そうすれば、人生の不幸はなくなるぞと、ちゃんと言われている。

 

 ところが、そうなると、人は信用できない。こっちから、つえをついて、ぜんぶ帰納的にやらねば、納得できないような人間を、世界の教育はこしらえている。

 

 演繹ということには、だれびとも考えていない。だれも考えていないところに、演繹哲学の最高のものをもってきているものですからして、納得しないのが、あたりまえになってきている。

 

 ただ、ここで、納得させる方法は、証拠を示す以外にない。日蓮大聖人様は大御本尊様を拝み、そして折伏しなさい、そうすれば幸福になるとおっしゃっています。そのとおり実行して、そうなれば、信用すれば良し、そうならなければ信用しないほうがよい。実験証明以外になくなってくる。

 

 こういう帰納的な頭脳の人間に教える、この時代には、これがもし、帰納哲学のような哲学の形において、この絶対的に、われわれを幸福にできる方法、絶対に、われわれが幸福になれる実践活動というものが、証明されていたとするならば、たいへんなことになる。

 

 しかし、これは帰納ができないから、注文するほうが無理なのです。これを、平らに言いますれば、人間を幸福にする機械ができたみたいなものである。

 

 それは、一枚の紙であるというところに、ほんとうの信頼がおけなくなってくる。

 その一枚の紙に、絶対の力があるということを証明しよう、説明しよう、わからせようとするのが、創価学会の教えなのであります。

 

 これには、どうしても、東洋哲学の基礎がなければなりません。その基礎から、今やっているのですが、皆さまも、どうか、ただ一枚の紙のなかに、仏の生き生きとした生命が存在しておって、そうして、われわれを幸福にするのだということを、どうか研究してもらいたいと思います。

 

 ただ、その研究には、少なくとも五年なり七年なりは、かかるのです。それまでは、釈迦と日蓮大聖人様を信ずる以外にはないのです。これは、日蓮大聖人様を絶対に信ずる以外にはないのです。

 

 バカにだまされるなら、しゃくにもさわるでありましょうけれども、日蓮大聖人様にだまされるなら、名誉と思って、だまされてもよいと思って、しっかりやってください。

 日蓮大聖人様は、御涅槃なさっているから、ウソだといっても文句のもっていくところはないでしょうが、まだ戸田城聖は生きている。

 

 絶対に大御本尊様を拝めば、しあわせになるという大聖人様のおことばを、そのまま、諸君らに伝えているのだからして、もし、そうならなかったら、殺しても、なぐっても勝手です。

 心配なく、『このやろう、うそを言った』と、いってきたまえ。しかし、実行しないで、たたきにきてもだめです。

 

どうか、この次の総会のあるまでに、大聖人様のおん仰せどおり、しっかりやって、たくさん功徳をもらって、また出てきてください。

 

昭和30年5月22日

本郷支部第二回総会

中央大学講堂