時にめぐりあう喜び

 

 時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれてきたかいのあるものであります。

 

 私自身のことからいえば、このあいだなくなられた世界的な大物理学者アインシュタイン先生に、今から三十四年前、慶応大学講堂において牧口先生とともに相対性原理のなにものたるやの講演を聞いたことがあります。

 

 私も物理、化学というようなものによって身をたてていた時代でありましたから、相対性原理のなにものたるや、その奥までわかりませんまでも、その教えを受けたということは、長いあいだの誇りでありました。

 

 外国へ行かれてアインシュタイン先生に会われた方は、そうとうおりましょうが、日本の国に生まれて、日本国内に住んで、アインシュタイン先生の講演を聞いたという誇りをもちうる人は、いくらもなかろうと私は思うのであります。

 

 また、次の私の喜びは、年二十一にして、初代会長にめぐりあい、四十四まで、その薫陶をうけ、ともに牢獄までもお供のできたということは、私にとっての誇りであります。

 

 第三に、末法大聖人様立宗七百年の時にめぐりあい、広宣流布の仏勅を受けているということは、前の二項にもました私の喜びであります。

 

 広宣流布ということは、さも、なにか国家のため、日本民衆のため、あるいはまた、なにか宗教上の問題のためにやるように思うのでありますが、事実はそうではないのであります。あなた方自身の幸福を得させるための手段であります。なにも広宣流布、広宣流布と片ひざを立ててさわがなくても、あなた方が、しあわせになるためであり、御本尊様を拝み、また折伏する。

 

 この折伏ということがなければ、いかに拝んでも功徳は少ないのです。また折伏ばかりしていても、御本尊様を拝んでいなければ功徳は少ないのです。

 

 うちに御本尊様を拝みまいらせるこの信力・行力、御本尊様を信ずる力、日蓮大聖人様のお心を心として行ずる力、信力・行力が一丸となって、法力・仏力となってあらわれ、そうして、あなた方の生活が幸福になる。その行為さえしておれば、自然に広宣流布への大道を行くことになるのです。

 

 皆さまも、折伏に信心に、純真な態度をとられ、さすがに信心していればこそ、ああなられたのだという手本をとられ、折伏しなくても、その姿が、真に折伏になっている。われもわれもと信心するようになれば、自然と広宣流布ということができ上がる。しかも、広宣流布の時はきているのですから、御本尊様のお力は、ひじょうに大きい。

 

 しからば、おまえは、昔の御本尊様には力はないが、今の御本尊様には力があるというのはおかしいではないかというかもしれませんが、御本尊様には変わりはないが、うけるわれわれに変わりがあるのです。

 

 東の空から出る太陽も、昼の真上にくる太陽も、太陽には変わりありません。しかし、法華経は午の刻と申し、昼をさしている。今、ほかの仏教は午の刻とは言われていない。今、真昼の太陽のような大御本尊様の直射を、われわれはうけている。その功徳をわが身にうけるも、うけないも、あなた方の自由、しっかり信心して、たくさん功徳をいただきなさい。これが私の教えることです。

 

 功徳を受けなければ損です。それには、しっかりと信心する以外にない。『先生! お金がないが、どうかなりませんか』『からだが弱いけれども、どうですか』どうですかと聞かれたって、私は、ただ『信心しなさいよ』という以外にない。あとはなにもありません。

 

 だから、指導を受けたいという人が、ずいぶんありますが、指導のしようがない。電車賃使って聞きにくるだけ損です。返事は、きまって『信心しなさい、なんでもかでも信心しなさい』だから私のところへ指導を受けにこようと思ったら『ははあ、電車賃が損だから信心しなさい、こう言われているから信心しよう』、こう思えばそれでよい。これでもって私の講演は終わります。

 

昭和30年4月24日

中野支部第四回総会

中央大学講堂