純真な信心でお寺を守れ(軽井沢妙照寺入仏式)
学会が、全日本に寺を建てようとすることは、最初からのこれは既定方針である。最初、鶴見に建てようとして、僧俗の一致をみることなく、わたくしが乾坤一擲の、こういう小さな寺ではなくて、学会の総力を結集した寺を建てようと思ったことが、ついに失敗に終わって、次に、八王子の在に建てた寺も、まだまだ心にまかせなかった。いまようやく、このまあ、たとえでいうと、幼稚園から小学校の一年になったような感じのする寺ができた。わたくしとしては、まだ心にたりないところであります。
これにつけて思い出すことが、ふたつある。あなた方にすれば、かんたんに建ったんだ、全会員の総力が、ここに結集されたのだから、それはかんたんに建ったのです。
だが、わたくしが以前に、大阪へ行きました。大阪の本伝寺に行ったときの感想を、一言申しあげる。
総代三人が、焼けたあとの寺を建てるために、じつに苦心をなすってお建てになった。わたくしはそのときに、この三人のご総代を拝みました。こんな、りっぱな寺ではありません。この三分の一もないようなお寺を建てられるのに、三人が、ほんとうのご苦心をして建てられた。ほんとうに、ごりっぱなものです。まだ、日蓮正宗の信心は、絶えておりません。
その翌年、高野尊師が、つごう上、もう一部屋建て増すことを、わたくしにお話しくださいました。わたくしは、うれしくてたまらなかった。建てたくて、建てたくて。
しかし、わたくしには建てる力がないのです。力というのは、金ではありません。この本伝寺の三人のご総代の真心にたいして、わたくしが、出しゃばって建てるわけにいかないのです。
そこで、ご総代三人にお出ましを願って『戸田がなんとかいたしますが、みなさん、いかがでございましょうか。お願いいたします』と、わたくしから手をついて頼んだときに、そのご総代の態度のごりっぱなこと、『いりません。まだこの寺を建てた借金が残っている。それをわれわれの手ではらってから、しかる後に、改めてお願いいたしましょう』と、一言いわれましたときに、またまた、わたしは頭をさげた。寺を持つということは、これくらい、ごりっぱでなければならぬと、わたくしは思うのです。
軽井沢へ、かるがると寺を建てたからと思って、この寺をそまつにするようなことではあいならぬと、わたくしは、この本伝寺のごりっぱな三人の総代を手本として、あなた方にいいつけるが、守れるか。
次に、いまひとつの例をもってお話しする。北海道に、旭川を中心に二つの寺がある。その寺が、ほとんど信者が、謗法でうずまっている。旧来の信者です。みんな、寺に満足なご奉公はしない。その上に、各自分の家庭には、みな、神様をまつり、邪教のものをいれて、平然としている。
このなかに、ふたりのりっぱな学会人としてわたくしが待遇できる信者がいる。ひとりは中島五郎君、ひとりは野村浅一君といいます。このふたりがかんぜんと立ち上がって『これでは、この寺を作ったときの先代の苦心にあいすまぬ。どうしても、この旧信者をば、りっぱな信者にしなきゃならぬ』と、涙ぐましい闘争をしている。
旭川へ行きまして総会がありました。班の総会です。地区の総会にも出ないわたくしが、班の総会に出ました。
そのときにはっきり申したことは、『野村君とは、東京で会っているが、中島五郎君のような堅い信心のある人に会いたいために、わたくしは、旭川まできました』といったのです。
親が寺を建てるときには、あんな北海道の山奥に、日蓮正宗の寺を建てるときには、どれほど、ご先代が苦心したかわからない。しかるに、二代になったところが、もう信心は衰えて、じつに、みるかげもない寺になってしまった。
これがふたつの例でありますが、あなた方は、この寺が、小さいも大きいもないのです。これだけ、やすやす建ったのですから、あなた方が、どれだけのご奉公をこの寺にしたか知りませんが、わたくしたちからみれば、まだまだ、ご奉公のしようがたりないと思っている。
わたくしがとめてあるせいもあるから、文句は会長に言えといえば、それきりです。これから先、信心を、孫子の代まで純真につづけさせて、あなた方のなかに、恨みをもってつきあう、金やあるいは商売のことに利用しあったり、そういうことのないように、信心だけは、純真、それひたぶるな信心において、軽井沢の信心を永久につづけるように、それだけいいつけて、わたくしの祝辞とする。
昭和29年11月10日
軽井沢妙照寺入仏式
日蓮正宗妙照寺