末法の利剣は題目と折伏

 

 きょうは、絶待妙と相待妙について話しをする。

 

 相待妙というのは、あらゆる宗教をもってきて、比較する場合、法華経が一番いいという場合に相待妙という。絶待妙とは、釈迦の説法の根本は法華経であるということである。

 

 たとえば、不動明王が火の上に立っている。あのような男が、じっさいにいるのではなく、たとえである。その意味は、この世のなかは火宅で、わたくしは火のなかに住んでいる。これを救うには仏の利剣(功徳)と、悪いものをしばる縄(罰)が必要である。成仏したいものは、しばる縄を切ってやるとのたとえであるから、あんな不動明王を拝んでも、なんにもならない。

 

 その釈迦のたとえの奥に、妙法蓮華経があるから、たとえが生きるのである。

 

 その説明の奥に、妙法蓮華経の本体がある。すなわち、御本尊様がある。説明には、不動明王を借りてきてもよい。縄は罰で、利益の剣をもって、火宅のなかにしばられている人たちの縄を切るというのである。

 

 ところが、その縄がわたくしたちをしばる縄になっている。

 この縄にしばられていない人間は、ひとりもいない。すなわち、女房にしばられ、子どもにしばられ、世法にしばられている。とくに、病気に悩むものは病気にしばられており、借金に悩むものは借金にしばられるのである。これが一番やっかいなことです。このしばられた生活はよくない。

 これを断ち切る利剣は、題目と折伏である。全国民をしばられぬようにしてやるのが、学会の使命であり、精神である。

 

 自分の縄を切って、それから人の縄を切ってやるのであるが、完全に自分の縄を切った人間はいないが、無量義経で、きみたち自身がしばられていても、『妙法蓮華経はぜったいに正しく、力がある。ゆえに功徳により、しばられた縄を切り、しあわせになることができる』と、知らない人に教えてもよいと説かれている。そこで、折伏をして人に御本尊様のお力を知らせているのであるが、本人が切れないうちに、折伏した相手が、先に切れてしまうと、かっこうの悪いものになる。早く自己の縄を断ち切るようにしなさい。このことを知らせに行くのが、今度の地方折伏である。

 

 今度の地方折伏、寺院建設資金について、みなさまの協力をひじょうに感謝している。前にもいったように、『おまえ行っておいで。帰りはひとりで帰ってこずに、ひとりでも多くのお友だちを連れておいで』と、お札をアイロンで伸ばして出したでしょう。必ずたくさんつれて帰ってくる。帰ってこない道理がないから、安心して待っていなさい。

 

 大阪では、七千世帯であるが、三年前には地方折伏が行なわれた。名古屋には中野支部長、九州福岡には杉並支部長、小岩支部長がそれぞれ行ったが、その地方に、会員も、知人もひとりもいなかった。連絡は、ぜんぶ電報と電話である。

 

 地方に、一軒の正宗の寺があった。学会の地方折伏の趣旨を話したが、『勝手にやりなさい』と、なんら助けてくれない。しかたがないので、新聞とチラシをもって、一軒一軒まわった。

 

 タバコを買いにはいり折伏してくるなど、苦心して座談会まで出したのが七人。そのなかで入信したのがひとりあった。各人、目の色を変えてがんばり、一週間後には、飯も食えない状態であった。

 

 名古屋から八女に電報がはいったが、電文が間違っていて、飛び込み戦術が、『トビコノセンジュツ』とあり、さて、トビコノ戦術とはなにかと、幹部一同頭をひねるというユーモアが出た。今度の岩見沢もこれとどうよう、一軒も知らないところへ行くのだからたいへんです。たいていアゴを出して帰ってくるだろう。ことし入信したもののなかで、五名、来年まで残れば大成功である。ひとりもなくなってしまえば終わりです。今度の拠点に知人があったら、折伏隊に応援して紹介してください。

 

 八月は本部行事はないが、休みではないから、留守中はがんばって、早くしばられている縄を切るよう闘争していただきたい。

 

昭和29年7月28日

本部幹部会

豊島公会堂