生命は永遠なり

 

 講演というから、講義をする調子でなく、話したいと思います。

 

 みなさんのなかに、まだ入信して新しい人もいるでありましょう。みなさんは、気の毒です。古い人たちは、身近で話したり、話しを聞いたり、教えたりしたことがあるのですが、いまは、なかなか、みなさんと話し合う機会がない。だから、せめてこういう席で、わたくしとふたりで、ひざをつき合わせているつもりで聞いていただきたい。

 

 われわれの生命は、永遠なのであります。しかしながら、どんな人でも、生命は永遠なんだということを、正確に教えてくれる人はなかろうと思うのです。

 

 キリスト教では、永遠ということは、死んだら魂が天に昇って、ずっと生きのびているといっているが、そんなバカな話しは世のなかにないのです。

 

 われわれの生命は、このままずっとつづいているのですから、また、あなたたちは、人間に生まれてこなければならないのであります。するとあなたたちは、迷信だとか、バカなことであるというでしょうが、しかし、ほんとうにあることは事実だから、しかたがないのです。ほんとうにあるということを信じなさい。このことを、いま日本で言いきっているのは、わたくしひとりです。

 

 それには確信があるから、いえるのである。世のみなさんは、おそろしくて言いきれないのです。なぜかというと、徳川時代に、間違った仏教があったので、迷信でもいうことができたのであるが、それが科学の進歩した今日、科学とつじつまが合わなくなって、いまの宗教家のなかに、言いきれる勇気のある人は、ひとりもいないのである。

 

 しかし、わたくしは言いきることができます。釈迦がはっきりいっているし、大聖人様もはっきりおっしゃっている。そのおことばを信じ、また、わたくし自身の体験から、たしかに信ずるのです。

 

 これは、わたくしがおそわったのでなく、ただわたくしは、むかしのことを思い出しただけなのです。生命は永遠であるということは、それには理論がある。生まれ変わるのではない、生まれ変わるということは、人の心を迷わし、あるいは、迷信をひき起こす、大きな原因となる

 

 一本の線香に火をつけ、短くなると、先の火が生まれ変わるのか。赤ん坊が年老いて、しわくちゃばあさんになったところで、生まれ変わったでしょうか。こんどまた生まれてくるとき、貧乏のなかに育ってきたいか。それがいやならば、信心をしなさい。

 

 人生がこの世きりなら、なんで真の信仰がいりましょうか。いくらでも悪いことをして、死ねばそれでよいわけだが、ところが、われわれはそれができない。その行為は、次の世に持ち越して、その生命が重なることを知って、生命の借金となって出てくるからです。

 

 なぜわたくしが、この信心をすすめるのかというと、この次に生まれたら、一番少なくとも、このぐらい(公会堂)の家に住んで、ビアノも、指輪も、なにもかもそろって、おかあさんは美人で、生まれてくる赤ん坊は福子で、頭が良くて、丈夫で、大きくなってりっぱな嫁さんをもらって、また福子を授かって、なにひとつ不自由な暮らしがないという、幸福な生活にさせたいがために、この信心をやかましくいうのです。

 

 けれども、これだけでは、みなさんに良くわからないでしょう。そこで、ほんとうに正しいということは、証拠がなければならぬ。この信心をすれば、必ず幸福になる、来世においては、必ず良くなるという証拠がなければなりません。それは、今世において、現世安穏後生善処という幸福境涯を願い、生活に証拠を得るのが、われわれの信心なのです。しっかり信心をして、折伏をしたならば、必ず良くなるのです。

もしそれがなかったら、日蓮大聖人様に談判して、わたくしの首をあげます。

 

 願いがかなわぬわけがない。現世において、証拠をつかんで、ほんとうに成仏するように。

 

昭和29年7月18日

文京支部第三回総会

豊島公会堂