末法は冥益冥罰
きょうはなん時ごろ終わるかと聞いたら、二時間半ぐらいで終わるといっていたが、一時に始まれば三時半に終わることになっていたのに、もう五時に近いそうです。
わたくしは小岩の人たちにはあまり話しをしたことがないので、三十分ぐらいかかって中道法相と、冥益冥罰の話しをしようと思い、力んでいたのでしたが、普通二十一人から二十三人がしゃべるのに、どんな計画からか、三十四人もしゃべったので、わたくしの話しをする時間がなくなってしまいました。
なぜ長くて悪いかというと、みなさんのなかには奥さんもずいぶんおります。これから家に帰って、遅くなると、ご飯のしたくをしていないで主人とけんかをする人ができると思う。こういうことが一か所にでもあるということは、会長の悩みであります。奥さん方も帰りたいでしょうが、こんなにいろいろなおもしろい話しがあると、帰れなくなり、家に帰って、一つ二つなぐられてもかまわないという人もでてくる。
さて、折伏だ折伏だといって、家のなかの仕事をしないのは悪い女房であります。それからまた、折伏だ折伏だといって、朝から仕事をしない夫はロクな亭主ではない。わたくしは、あくまで中道を重んじます。主人はいっしょうけんめい商売をしてもうけ、奥さんに金を渡していただきたいと思う。自分だけポッケにいれて、飲んではいかんと思う。
また奥さんは、井戸ばた会議の会長、井戸ばた会議の有名議員になるのをやめて、内職をしてためるのです。
すなわちへそくりというのがこれで、あの山内一豊の妻のような賢夫人が、小岩にそろっていただきたいと思う。
それを、折伏だ折伏だといって出かけ、自分は帰りにラーメンを食べ、夫は家でオコーコのはしきれで食べさせ、帰ってきたときの容ぼうはというと、鼻の先にすみをつけ、チンコロのような顔をしてい。そういう家庭を思うとき、悲しくなる。
中道法相は、仏法の原理であり、女房は女房らしく、夫は夫らしくという、中道法相でやりなさい。これだけでは会長の責任がつとまらんと思うから、もう五分ぐらい話しをする。
本宗のご利益というものは、冥益というのです。罰は冥罰という罰なのです。いまみなさんの体験談、あるいは指導、諸君の話しを聞いていると、罰がすぐでてくるように話しをしているが、これはすぐでてこない。すると、『だが先生、そういうことをいいますが、それは出るのではないですか』というが、それには、わけがある。
そこで、そのわけを話してあげる。だが、この理論をとっくり教えてやろうと思ったが、時間がないので、ちゃわん式にやろう。とっくりと盃ではゆっくりになるが、ちゃわんでやると早い。だから、ちゃわん式でやることにする。
ここに二十尺の木がある。高さが二十尺の木があると思いたまえ。ここに出たばかりの木の芽があるとする。
この芽は、十五年すると二十尺の木になる芽なのである。こっちのは、すでに二十尺になっている。このふたつをくらベても、どうにも物の数ではない。二十尺の木は枝を伸ばし葉を茂らし、勢いが良い。ところが、この二十尺の木が題目に反対し、広宣流布に反対するとします。
その一寸の芽は、三大秘法の御本尊様を信ずる。すると、このわずか一寸の芽に二十尺の木の力がこもるからして、この芽はひじょうな力を持つのです。これをあなた方の受ける功徳という。
二十尺の木は、反対するからして、枯れるという運勢をもつ。これを罰というのであります。あなた方の受けた、罰も利益もごく小さいものであり、わたくしが受けた罰、利益からすれば、赤ん坊の赤ん坊である。こわいのは冥罰といい、冥益というのがこわいのです。そういってもわからぬと思うので、実際の例をあげてわかっていただこうと思う。
初代牧口先生の親類に、某という人がいた。この人は、箱根土地会社に関係を持ち、代議士であり、辻嘉六の縁を受けたものでした。牧口先生は一個の恩給生活者であり、かれは市会議員であり、堂々たる生活をしていたために、牧口先生の話しをぜんぜん受けいれなかった。そのときに、牧口先生のいうことなら、なんでも聞くという少し頭のおかしい人がいたが、このふたりがあい合うと、謗法の人の方が偉く、社会的にだれがみても偉い。
その一寸おかしい人の方が偉くない。それはそれでよいとしよう。
ここで、冥益冥罰は釈迦のご利益とどう違うか。釈迦のご利益はすぐわかる。しかるに、この冥罰はすぐみえぬ。ここにいっぱいの水があり、毒がはいっているとする。これを飲み、血を吐き、死ねば毒があるとわかる。
しかし、この毒が五年六年七年もして後に、じょじょにじょじょに、でてきて、最後に死んでしまうとしたら、この水が悪いということがわからない。
この前のビキニ、この水爆実験の問題であったが、あれなんか、じょじょに、でてくるでしょう。
それみたいに、邪宗教というものは、飲んでから毒がじょじょにでてくる。正宗の利益もじょじょにでてくる。これは正宗だ、これは邪宗だというが、一日二日たってもみえない。たった一寸の芽が、十五年すると大木になる。十五年間、その芽をみなかった人は、あっ、すごいなあと思う。十五年前に二十尺あった大木が、枯れてなくなると、罰というものはすごいなあと思う。
不肖わたくしは、二十五年間、日蓮正宗を信じ、御本尊様を唯一無二と信奉してきたおかげで、この姿をまのあたりにみてきた。
この初代会長の話しを聞かなかった縁者はどうなったかというと、長男は三原山で身を投げて死に、次男は家出をし、三男は肺病で、その人はいま六十になんなんとして、いままで苦労をともにしてきた、その妻を離縁しようとしている。一家離散の姿が、十五年間に厳然としている。しかし十五年たったら罰と思うでしょうが、しかたがないものだといってあきらめてしまっている。これを冥罰というのである。
その少し頭のおかしい人は、いま会いたいといっても、会えないほどの地位を持っている。その人は、いつとはなしに、二十尺の堂々たる大木になってしまっている。十五年間に、二十尺というなら、これを十五尺とかりにしても、年に一尺です。この一尺が、一月に伸びるものをみれば、八分にもたりません。一日にすると、どのくらい伸びるのでしょうか。いくらにもならぬ。ご利益は目に見えない。罰も目に見えない。しかし、十五年、二十年では天地のごとき相違ができてくる。これを冥罰冥益という。
末法の本式の罰は冥罰なのです。きょうこの会場にこられた人に対してのみやげとしていうが、十五年二十年間の信心をやり、きょうからとだえた人と、真剣にやった人との比較をつけてごらんなさい。戸田はああいったが、なるほどそうだったと感心してもらいたくない。ご利益の方はうんと受けて、感心してもよいが、罰をうけた人が、十五年たって、戸田のいったことは、さすがそうだったといっても、なにもなりません。第一巻の終わりである。
こういうことのないように注意して、きょうの講演は終わる。
昭和29年4月18日
小岩支部第一回総会
中央大学講堂