人法一箇について
ひざをつき合わせて話す機会は少ないので、本部で対すると同じように話したい。会長の話しはやかましいものです。まして、教学部長になると、なおやかましい。話しはわかれば良いのだが、接していないとわからない。
日蓮正宗と、他の宗教と、どう違うかということを話してみたい。
自我偈に『天人常充満……不聞三宝名』とありますが、憂怖諸苦悩とは、憂とは憂い、怖は恐れ、苦は苦しみ、悩とは悩みのことであって、われわれは、この四つをもっておって、苦しみや悩みがないという人はうそつきである。
われわれの生活は、愚痴や、苦悩をもって生活している。このような人が、人前では景気をつける人間であって、このような衆生は、このような罪が充満し無量阿僧祇劫過ぎても、不聞三宝名といって、三宝の名まえを聞かない。だから、この罪の衆生は、三宝の名を聞かないから、憂怖諸苦悩が充満しているのです。
三宝の名まえは、仏の名まえ、法の名まえ、僧の名まえで、この三つが宝になる。これを仏法僧というのである。
日本国は、いままさに広宣流布する国である。御本尊様の名まえを呼んで、功徳がある。三宝の名まえとはどういうものか。
仏法には種類がある。仏法というと、だれでも同じと思っている。釈迦から出ていると思っているが、そこに間違いがある。
いまある宗教界をのぞいてみればわかるが、念仏の仏は阿弥陀仏、法は三部経、僧は法然、善導、親鸞などとまちまちである。真言宗は、大日如来が仏で、祈禱が法になる。僧は弘法です。また、禅宗はこれはまためんどうです。仏は迷子になっている。達磨は自分の心のなかにある仏様で、法は坐禅、僧は達磨。こんな低級なのでは、末法は救えない。
しからば、正宗は、仏は日蓮大聖人様、法は南無妙法蓮華経、僧は日興上人となります。他の宗とくらべてみよう。いまの日蓮宗では三宝はどうか。達磨の法と仏の位がどこが違うのか。僧ならどうかというようにその違いをみてくると相違がはっきりしてきて、そこで比較研究ができる。
いまの新興宗教をみても、立正佼成会などに三宝は有りますか。お参りにくるとき、お金を出す三方ぐらいなもので、哲学的な三宝をもっていってもわからない。かれらが責められれば身延や中山にならって、三宝を立て、釈迦が仏、法が南無妙法蓮華経、僧は日蓮上人などという。バカげた三宝です。仏と法はそろわなくてはならない。
よく世法を教えているが、例を取って具体的に考えても、魚屋が大根を背負っているときには、法と人とがあわない。医者が大工をやったりしては、世のなかがトンチンカンになってしまう。亭主が金を持ってこないで、女房の着物を質にいれたら、亭主とはいえない。また、奥様が頭をすずめの巣のようにして、どこかのおかみさんみたいだと、奥様ではない。この人は奥様でも、人の方は貧乏長屋のおかみさんになってしまうから、人法一箇ではない。
以上は例だが、仏法においては、人法一箇がだいじなのです。南無妙法蓮華経と唱えられたのが日蓮大聖人様で御本仏、南無妙法蓮華経を伝えた日興上人が僧宝である。登山の際には、しっかりと三宝を拝してこなくてはならない。
お山へ行く前には、行ったときのことを考え、お山に着くと、帰ることばかり考えている。そんなことをせずに、日蓮大聖人様にお目通りしたら、御開山日興上人様にもお目通りしなくてはなりません。
昭和29年3月28日
鶴見支部第三回総会
星薬科大学講堂