指導原理を把握せよ

 

 わたくしの念願としているところは、宗教革命である。普通の、いわゆる革命と違い、人を殺したり、共産主義革命のように、明治維新のように、家を壊し、女房子どもにひもじい思いをさせる革命、このような革命は、革命のうちにはいらぬ。

 

 宗教革命というものは、からだが丈夫で、金がもうかって、老年になって月に二回ないし三回ぐらいは温泉に、はいって、そして幸福に暮らしながら、革命ができるのです。良いだろう。

 

 また革命という事件を起こそうというものは、命令権をだいじにしてやれという。

 宗教革命は違う、心の満足、生活、肉体の満足、ここに根本がある。

 ゆえに、折伏しろと、上のものが下のものにいうことは間違いである。

 

 わたくしは、支部長の人格を尊重している。支部長は、地区部長を尊重せねばならぬ。班長、組長も、どうようである。上の人が信心を十分して、下のものをかわいがらねばならぬ。

 

 生活は信仰である。信仰して利益がなければ、だれもやらない。あなたがたに、ぜったい功徳があるからやりなさいというのです。それを逆に、折伏のために信仰にはいってきたと考えているものがいる。

 

 支部長は地区部長を集めて、『折伏しろ。だらしがない』としかりつける。地区部長は班長を集めて、『こんな成果で信心しているのか』という。班長は組長を集め、また同じことをいって、しかりつける。組長は組員を集めて……、こんなことではだめです。

 

 これについて、先日、大宮の統合式で話したことを、もう一度、みんなに話してあげよう。

 むかし、ある男のひとり息子が、けちんぼうな店へ奉公にいくことになった。そこで、その親爺が、頭の悪い息子を心配して、その心得を話してやった。

『あそこの主人は、大そう物惜みである。だから一枚の紙を使うにも、まず食事をした後、箸をふいたら、そのまま捨てないで、ふところにしまっておき、それで鼻をかむ。鼻をかんでも捨てないで、最後に便所へいってそれを使う。万事かくのごとくせよ』と教えた。

 ところが、頭の悪い息子は、正直に守ったのはよいが、この逆をやり、便所で使って、鼻をかんで、箸をふいた。

 

 あなたがたは笑うが、折伏しなければ、頭からしかりつけるのは、これと同じ原理である。物には順序というものがある。やることは同じでも、順序が逆であれば、いまの話しと同じである。

 

 登山会のおりに、所化小僧さんに御供養するが、あなたがたのなかには、小僧さんが喜ぶからと思っている人があるが、これは正月十五日、代々の御法主猊下が、所化小僧さんにごちそうをする。これは、広宣流布のときに、再びご出現の日目上人様が、もしや、このなかにおいでになるかも知れぬということから、お山の伝統の行事である。

 わたくしも、登山のおりには、その気持ちで、御供養申し上げているのです。これがだいじなことです。物の見方がわかれば、物事はすべて成就する。

 

 支部長、地区部長だからといって、いばる必要は少しもない。みなさんすベてが、やがて大支部長、大地区部長になる人ばかりではないか。きょうは、この話しをおぼえてお帰りなさい。

 

昭和29年1月29日

本部幹部会

豊島公会堂

 

 

青年に

 

 広宣流布、広宣流布というが、広宣流布はできるのがあたりまえです。これをやりそこなったら、日本はだめになる。東洋の闇がつづく。われわれは、霊鷲山へ行けなくなる。

 

 さて、どうやって広宣流布するか。これが問題です。だいたい、現代国家において、ひとつの宗教をきめて、国教とすることは、世界の歴史に反する。世界の歴史に逆行することである。もし諸君に、自由解放の気風があるならば、反逆の心が起きよう。いまから七百年前の宗教をもってきて、それを現代国家の国教とし、それを指導原理とする。これがいまの青年になっとくできようか。できないのが、あたりまえである。

 

 さあ! 諸君。わたくしを折伏してみたまえ。日蓮正宗が最高だ、世界一だといったところで、どこが最高なのか、正しいのか。

 

昭和29年2月6日

第一回登山会

総本山大石寺