仏法は勝負である

 

 わたくしは、毎月諸君らの確信を聞くたびに、悲しい気がする。というのは、折伏をするのが、まるで数字の計算のようであるからです。どこそこが勝った、やれ負けたと、すもうか野球でも見るような気持ちでくる人が、このなかにいるのです。しかし、折伏は遊技のようにやっても功徳がある。すもうを見て、自分のひいきが負ければ悲しいし、入場料を損する。ここは、ただで見られる。

 

 仏法は勝負で、国法は正邪、世法は評判である。この三つがわからぬと、戸田の哲学がわからない。やみの米を運ぶことが、良いか悪いかと聞かれる。病いにやんでいる夫を持ち、子を持っているならば、どうするのですか。どしどし、やみ米を運びなさいという以外にない。

 

 国家できめた国法では悪いが、仏法では悪くない。国民の生活を維持できないのは国の政治が悪いのではないか。つかまらないようにやるのが仏法です。国法と仏法とけんかして、仏法は必ず勝つ。戸田は悪人であると評判しても罰することはできまい。

 

私見:矢野さんの黒い手帳でしたか。あれは、池田大作(先生)が戸田城聖先生の言うことを、都合よく解釈して行ったか、勝手にご自分の価値観で行ったか。謗法は恐いね。原田さん、分からなかったのかな?国民の生活を維持できない、ような状態かどうか考えれば分かる。

 

 罰せられるようなことをしていないわたくしは、今度、謗法しました。いままで謗法しないと思うた。しかし謗法はよくやるが、わからないのです。

 わたくしは病気で気持ちが悪いときがあった。声が出なくなり、のどがつまり、息ができぬ。その原因は、本部ができて、うれしくてたまらなかった。さぞかし静かであろうと思ったら、毎日題目でわんわんであり、うるさいと思った。とたんに謗法でこのとおりになっていた。

 

 ただ題目を唱えれば良い。うんとあげなさい。もうひとつ、謗法しては悪いから言うとく。それは子どもがきていろいろこわす。どんどんきてこわしている。これを、こわされる方も謗法であれば、こわす方も謗法である。

 

 ゆえに、いま懺悔している。ほんとうに懺悔するのは、御本尊様に向かう以外にない。

 いまぼくが三百円盗んだとする。懺悔できない。言ったらいけない。キリストとちがう。これを『若し懺悔せんと欲せば端座して実相を思え衆罪は霜露の如し慧日能く之を消除す』といわれている。

 

 これがほんとうの懺悔といわれる。題目を唱えれば良い。今度の病気は懺悔してなおった。

 

 きょう、支部長がほらを吹いたから、きみたちもほらを吹くのです。仏法ではほらの貝を法羅という。

 本年十八万というが、そんなにやらなくてもよい。八万でけっこうだ、十五万できれば広宣流布できることを知っている。いくらやっても、学問教育がなかったら、なにごともできぬ。虱の集団である。来年二十五万世帯になったら、手に負えない。わたくしが教学を立てなければつぶれる。会長の願いは、十八万やらなくてもよいから、八万やってもらいたい。

 

昭和28年12月21日

本部幹部会

豊島公会堂