哲学とは何か
『哲学』というものは、西洋の哲学でいうデカルトやカントなどのように、めんどうなものではない。わたくしは大学を出ないからわからないというものもいるが、哲学するということは、考えることである。
一番やさしい哲学は、水戸光圀の漫遊記があるが、そのなかに、いなかでおばあさんに水をくれといって、米俵に腰をかけたら、おばあさんが、これは水戸様に出す米だといって怒った。光圀は頭をさげてあやまった。聞けばこっけいな話しであるが、おばあさんには、自分の作った米を領主様にさしあげること、このことが哲学である。
『だれがなんといっても、これだけはどうしようもない』これが哲学である。
この考え方が、ほんとうに人生に役立つか否かを、系統づけて研究したのは人生哲学であり、その最高の方法が価値論である。
日蓮大聖人様は、いかにすれば人類がしあわせになるかを考えられた。デカルトやカントの哲学をやったから、などとくらべてもだめだ。最高の幸福を与える御本尊様を示された、大聖人様の哲学に、われわれが従いきったときに、われわれがぜったい幸福になれる最高の哲学があるのです。
わたくしは、若いころに、哲学とは芸術なりといいきった。論理の組み合わせで、わけのわからぬものです。
しかし、いまのわたくしの哲学は、御本尊様を拝むこと以外にない。これをのぞいて、ほんとうの哲学はどこにあるか。
先ほど石田君がおもしろいことをいった、地区部長が倒れても、班長が倒れることのないようにということだが、いま文京に地区部長五人、班長二十四人がいる。ぜったい倒れることがないと考えるのが人生である。しかし、倒れるかもしれぬ。地区部長が倒れたからといって、いっしょに倒れる班長はバカです。自分の班をかかえて地区全体の闘争を、負けないようにするのが班長である。
わたくしは、牧口先生が倒れても、先生の後、わたくしは広宣流布に身命を捨てている。感心せずについてこなければだめです。きみらがついてこようとこまいと、わたくしはやっていく。
折伏できるのは、生命力が強くなるからです。わたくしは会長の地位で、東京では折伏できない。北海道へいったとき折伏して、うれしくて、愉快で愉快で、しようがなかった。
『どうだ信ずるか』『はい信じます』
生命力が強くなければ、折伏はできない。女房に負けているようでは、折伏できない。楽しめといったところで、はつらつたる元気と、生命力なくしてはだめです。商売もそうです。これが折伏の原理である。
昭和28年11月1日
文京支部第二回総会
東京教育会館