忙しい時の折伏こそ真の供養
きょうは講演というのではなく、椅子にあぐらでもかいて、スルメでもかじるような気持ちで話します。
妙法蓮華経がわかれば、人生は平和で幸福です。しかし、それが理くつではわかる、ことばでもいえるが、なかなかわからない。これでみな悩んでいる。なにゆえに御本尊様に力があるか。紙に書いた南無妙法蓮華経を拝んで、なんで功徳があるか。
これは疑いになるが、普通でいったら信用できんだろう。紙に書いたものを拝んで、幸福になったり、功徳が出たりすることは、不思議と思わぬか。迷信と思わぬか。いま、それを教える。
およそ、万物には静止がない。わたくしは、ことし五十四歳になったが、年はとりたくないと思っても、とめることができない。あるいは怒らぬときめても、また夫婦げんかを始めるだろう。心といい、肉体といい、動かざるを得ないのです。
地球は一日一回転してとまらない。とまったらたいへんです。われわれはみんなふっ飛んでしまう。地球は、太陽のまわりを三百六十五日五時間四十八分四十六秒という力でまわっているのです。ここに木がありますが、木の葉を落とすまいと思うても、自然に落ち、木も変化します。
世のなかには、変化のないものはぜったいない。ことごとく変化し、変わらざるを得ぬのが実相である。これが、一念三千の一念と関係がある。如是相、如是性、如是体、変化相、変化性、変化体しかみえない。この事実は、説明のしようがない。
これを公理という。どうして世が変化するかは、事実が証明であって、公理である。たとえば、線は二点間の距離を示し、太さもないもので、とうぜん認めねばならぬ公理である。この公理にもとずき、定理が生まれるのである。変化することのありのままを認めたら、そうさせる大もとはなにかということになる。
万物を変化させねばならないものがある。この万物を変化させる根本の実体を、南無妙法蓮華経といい、そのように変化していく力自体を、御自分の力となされた方を、仏という。いっさい衆生を変化させる側を寂照といい、その力を見出されたお方は、ただひとりのみであり、すなわち日蓮大聖人様である。
変化させる力とは、大宇宙の変化律、生命力であり、その大生命力そのまま、紙に写されたのが大御本尊様である。生命力を変化させる力がこもっているのである。
紙に書いた字ほど恐ろしいものはない。わたくしのところに、英語で今晩殺すと手紙がきても、少しも驚かない。また、ドイツ語であす一千万円あげるときても、少しもうれしく思わない。なんとなれば、読めないからである。
みんなも、わからないのであるから、しかたがないから、疑うことなく御本尊様を信じ、また末法の衆生に信じさせるいがいにないのである。あなたたちに幸福をくださる、ぜったいの御本尊様、宇宙の変化をおこさせる根本の生命が、御本尊様である。境智冥合して、生命が変化して功徳が出るのである。
これをわかろうとして、苦心せねばだめである。これを批判してやろうとするのはよしなさい。批判するのはバカです。宇宙大の生命力の御本尊様を信じて、功徳を受けていただきたいのである。
わたくしはみんなに会って『信心しているか』とは聞かぬ。折伏はあたりまえのことである。わたくしが聞きたいことは、商売はどうか、金はもうかったか、からだはじょうぶかということである。みんなが功徳を受けてこそ、ほんとうにうれしい。『信心してます。折伏やってます』といって、貧乏しているものはわたくしの弟子ではない。
商売を良くし、一家が良くなるために信心しているのである。信心信心といって、商売をやらぬものは謗法である。
商売は社会への奉仕である。『御みやづかいを法華経とをぼしめせ』(檀越某御返事一二九五ぺージ)といわれているとおりである。商売せずに、折伏折伏と歩くやつは除名する。
法のために働くにせよ、自分の休みたいと思うときに働くことこそ、からだの供養になるのであって、商売まで休んでの折伏は、供養にはならない。金銭のことでもそうです。百万円もうけて二十万円供養するよりも、『貧者の一燈』といって、これを出せば晩のおかずが買えないが、御法のために出したいという供養こそ、功徳が大きいのである。朝五時から夜七時まで働き、つかれたから休みたいが折伏に行き、仏にからだを供養してこそ、ほんとうの功徳が出るのである。
ない金をたたいて、みんなは供養しなさい。無慈悲に聞こえるかもしれんが、そうではない。商売を一生けんめいやり、忙しいなかに、身をもって折伏せねば、真の信心にはならない。折伏でも供養でも、よく考えて信心しなさい。
昭和28年5月24日
仙台支部第三回総会
レジャーセンター