体験・教学・組織

 

 御本尊様の功徳は、十分みなさんはわかっていると思う。御本尊様を信じて、一年、二年、三年、十年となれば、生活は根本から変わります。といっても、信心の深さが変わらなければ生活も変わらない。たとえ三年でも、信心が深ければ生活は一変する。運命の転換ができるのである。貧乏、病気、あらゆるものが変わる。

 

 仏法のなかで、運命を転換する仏法は、日蓮正宗以外にない。こんなすごい御本尊様を、真剣に拝めない人たちのいるのは、まったく残念である。それで、わたくしは、いま末端の指導について悩んでいる。だから、これについてのべてみる。

 

 まず御本尊様を信じたならば、罰と功徳を体験し、教学を身につけるように。教学はむずかしいと思うかもしれないが、特別変わったことをするのではない。

 教学は、地位に従って、大中小の三段階をふんで登っていけばよい。すなわち、小学校程度の教学とは、聖教新聞の体験談と、大白蓮華に出ている『小説・日蓮大聖人』を読むことで、中級とは、聖教新聞の社説と、大白蓮華の巻頭言を読むことです。

 

 新聞の社説は、組長以上のものは、かかさず、みんな読んでいると思いますが、これから、わたくしのところへきた諸君には、この前の新聞の社説はなにが書いてあったか、聞いてみる考えです。よく読んでもらいたい。

 

 大学級は、一歩進んで、大白蓮華の『観心本尊抄文段拝読』等をよく読めば、りっぱな教学となる。読んでわからなかったら、幹部にぶつかっていくように。

 

 聞くところによると、足立では『御利益を受ければ教学はどうでもよい』といっているものもあると聞くが、とんでもない。教学により信心が強くなり、高まるから、功徳が出るのです。四力というが、『信力・行力』の強さによって、『法力・仏力』が強くなる。この法力仏力を現わすには、その人自身の信力行力による。このふたつが冥じて、仏力法力となって、われわれの頭ではわからない、奇蹟のような功徳となって現われる。これをよくよく心得て、指導を受けるように。

 

 次に、学会は組織をもっている。学会の組織に、批判はぜったいにいけません。学会を離れて功徳はぜったいありません。

 増上慢のように聞こえるかもしらんが、畑毛の猊下(堀日亨上人)は、わたくしにこんなことを申された。『あなたが、四百年前に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅びはしませんでしたろう』と。

 このおことばに対して、わたくしはお答え申しあげた。

『猊下が、いまお生まれになったから、わたくしも、猊下に三十年遅れて生まれてまいりました』と。

 事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。猊下は、五十年かかって、日蓮大聖人様の仏法をまとめられ、猊下の頭にはすでに御書が一冊きちんとはいっている。それだからこそ、御書編さんに、身延でも三年前からかかっているというのに、われわれは一昨年九月に決心し、昨年四月にできた。しかも、りっぱなものができあがった。これは、猊下たったおひとりの力である。そして、いままでにない御書を編さんできた。これは、まったく猊下のおかげである。

 学会が、これほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のために御出現になられたのである。

 

 あらゆる苦しんでいる人々を救わんがため、この仏様の事業をするわれわれ学会に、功徳がないわけはない。だから、組織を厳守させるのである。

 

 組長、班長、地区部長は、みずから部下の小使いだと思うように。いばるものは、監査部長に命じて除名する。いったん除名したら、ぜったいに復帰は許さない。仏法の上より誤りがあれば、地区部長といえども除名する。部長のおかす罪は、もっとも重くみる。組織を重んずるかぎりには、厳罰をもって当たる。

 

 次に、指導ということは、人にものを教えることではない。教授と指導は違う。指導とは導くことである。自分が覚えて教えるのではなく、『それでは、自分といっしょに、読み合おう』とすすめるのが指導である。要は、相手に対して高いところを指さしてみせればよいのである。

 

 また、指導を受ける側も、教わるような気持ちではいけない。組員に対し、指導のできないような組長、班長がいたら、わたくしに教えてもらいたい。仏法上にはインチキがあってはいけない。このことをよく腹に入れておくように。

 

昭和28年5月17日

足立支部第二回総会

王子百貨店ホール