成仏の種を育てよ
午前中は、理論めいた話しであったから、今度は、二人どうしで話し合っているつもりで話したい。
わたくしは、会長になるのが、ひじょうにいやであった。昭和二十二年、会長がなくなった後、理事長にとどまっていたいと願っていたところが、もうひとつの謗法とともに、えらい目にあった。なりたくなかったもっともひとつの理由は、資格がなかったことである。資格なくして会長になることは、恐ろしいことだからである。ところが、おととし資格を得た。
御本尊様の功徳が証拠となって現われたら、会長になるつもりであったが、あんのじょうものすごい証拠が出た。証拠が出た以上、断固として会長の席についたのである。殺そうと、さかさまにつるされようと、会長の地位をつらぬいて死ぬ覚悟である。
いまわたくしは、広宣流布はとうぜんのことであるから、悔やまぬ。わたくしの望むことは、どうか早く、みなさんが金持ちになってもらいたいことである。一家じょうぶであってほしい。
『先生、わたくしはこんなに良くなった』といわれるときのうれしさ。『悪い』といわれるときは、胸をえぐられるような気がする。
ある人が、商売をほったらかして、座談会などに出ていると聞いて、飛びたつほどつらい思いをした。商売も法華経である。商売するための信仰か、信仰するために商売するのか。生活を良くするための信仰ではないか。
逆にする人が、どうしてわたくしの指導を受けているといわれようか。ここを取り違えずに、信心中心に考えていくということです。
いま聞いていると、あなた方はだいぶ功徳をいただいたようだが、わたくしの受けた功徳からくらベれば、ごく小さなものである。
いかにしたらほんとうの功徳があるかというに、いまここに三つの地所があり、第一の畑にはなにもまかず、第二の畑には菜をまき、第三の畑には宝のなるひと粒の種をまいてあったとする。第一の畑に子どもがはいったとしても、しからないであろうし、第二の畑にはいったとしても、真剣にはしからない。第三の畑にはいったら、真剣になってしかるであろう。これは、心田に仏になる種を植えたからである。
信心とは、御本尊様をいただくということで、仏になる木を植えたことであり、目には見えぬが、この五体を、諸天善神が、夜となく昼となく、けんめいに守っているのです。種が芽を出し、木に枝を出し、葉が茂り、花が咲き、実のなるのもわずかのうち、こうなると畑の値段がうんと高くなる。これを成仏の境涯というので、そこまでいかずとも、葉が茂るころは、ほんとうに人生の幸福生活ができるのです。
あなた方は、まだ芽を出すか出さぬかのとき、芽を出して虫に食われてはならぬ。草ぼうぼうにしていたならば、芽が腐ってしまう。折伏とは、心田にある雑草を取ること、朝タの題目は、畑にこやしをやることです。
旧信徒の功徳のないことは、雑草を取らぬからである。心田に植えた種の上に、たえずこやしをやり、雑草を取って、しあわせになりなさい。
ほんとうによくなるのは、十五年です。七年ぐらいから良くなってくる。菜っ葉を植えても、十日や二十日はかかる。待っていなさい。十五年目には、バカはりこうに、貧乏は金持ちに、口うるさい奥さんも、だまってしまのです。だから腰をすえて信心折伏に励みなさい。
昭和28年5月3日
創価学会第八回総会午後
中央大学講堂