日蓮大聖人様は末法の御本仏
仏と申しますれば、釈迦、天台、日蓮大聖人様であります。釈迦は、正法時代の仏であり、天台は像法の仏であり、日蓮大聖人様は末法の仏であります。この区別がはっきりしないところに、邪宗が起こっているのであります。
日蓮大聖人様が釈迦や天台の流れをくんでいると思っているところに、違いがあるのであります。
法華経といえば、釈迦の二十八品しかないと思っているところに、大なる誤りをなしているのであります。
釈迦は、妙法蓮華経二十八品であり、天台の説かれましたのは、摩詞止観であります。日蓮大聖人様のお説きあそばされたのは、南無妙法蓮華経の七文字であります。
法華経をお持ちの方こそ、仏であって、このように三種に違っているのは、その時代の民衆を救う手だてが違うゆえでありますから、末法においては、釈迦、天台等の教えは、去年の暦と同じで、なんら役に立たないのであります。
だから、釈迦の法華経を信仰しても、少しも功徳を受けられないので、かえって害があるのであります。十日もたったご飯が、カビがはえて腐っていたら、腹をこわすに違いありません。
釈迦の仏法は、腐ったご飯であります。これを平気で食わせている邪宗の坊主も坊主なら、それを知らんで食っている信者も信者であります。
末法の仏様は、久遠元初の自受用報身如来、またの名は、南無妙法蓮華経様という仏様であります。この仏様のお力は、宇宙大のお力を持ち、宇宙それ自体であります。永遠のお力を持ち、あらゆるものを変化させていくお力をもった仏様であります。
この仏様は、垂迹として、釈迦の法華経では上行菩薩となり、末法では日蓮大聖人様として再誕されたのであります。これがわからないのが、中山、身延、佼成会等の邪宗であります。したがって、かれらの拝んでいる本尊には、宇宙大の力、宇宙を変化させる根本の力を持たないどころか、悪い結果を生んでいるのであります。
しかるに、正宗の大御本尊様は、真に偉大なお力をお持ちなのであります。これは、理論の飛躍があるのではないかという疑問もあるでありましょうから、少しくのべてみようと思います。
一般に、宗教と科学とは、一致しないように思っており、また両者はぜんぜん反対なものであるかに考えているのが、今日の科学界、宗教界であり、ここにほんとうの宗教を信じられない、大きな誤謬をうんでいるのであります。そのゆえはなにかというに、キリスト教、神道のしわざであります。
キリスト教では、亭主もいないのにあかん坊が生まれたなどのバカなことがあるし、死んでから三日後に、死人が歩き出し、一か月後に天上に上ったなど、インチキな前提をもっているから、科学では説明がつかないのだが、日本以外には、こんな宗教以外のものがないから、これを承認せざるを得ないのである。
いったい、学問とは、その研究対象をもつものであります。法律学は、われわれの経済生活上の種々なことがらを対象として研究され、経済学は、物資の移動について研究され、物理学、化学は、物質の変化を対象として、文学、哲学、心理学は、人の心等を対象として研究されているのであります。
これらのあるものは、正しく証明されており、あるものは仮説をたてて、これを基礎として研究しているのであります。さりとはいえ、これらの学問は、相互に助け合い、かの偉大な方程式は、これに取りいれるというようにして進んでおるのです。これらの科学全体をまとめて、これと対比して、宗教の哲学があるのであります。
しからば、宗教はなにをもって研究対象としているのか。日蓮大聖人様の仏法、あるいは釈迦にしても、天台にしても、なにをもって研究対象としていたか。いまの科学は、われわれの社会、われわれの物質、われわれの苦しむところ等を、分科して研究しているのですが、宗教は生きているわれわれの生命そのものが、研究対象となるのであります。むしろ、科学と相反することなく、科学に対して宗教の発見を貸し、科学の法を借りて説明するも一説、いっこうにさしつかえないと思うのであります。宗教の説明、研究は、日蓮大聖人様が完成されているのです。
あらゆる宇宙のものは、たえず変化するのであります。どれひとつとして変化しないものはないのです。すわりこんでいて、どんなにりきんでも、年をとらざるを得ないのです。これが宇宙のほんとうの姿です。しからば、この変化をさせる根本のもの、根本の生命力があるのです。これを名づけて、南無妙法蓮華経というのです。宇宙自体であります。その力を持たれた方が、久遠元初の自受用報身如来、すなわち、末法においては日蓮大聖人様ご自身が、そのお力をお持ちになったのです。
しからば、日蓮大聖人様は大科学者であらせられるのです。ご自分の研究を発表なされて、宇宙の生命力を発揮する機械をお作りになられ、どんなバカでも、これを用いて幸福になり得るようにしてくださったのです。これが大御本尊様であり、いまこそ、この日蓮正宗の御本尊様を、広く人に伝えるのときがきたのです。
顕仏未来記に、仏法は西、天竺へかえるとおおせあるこの仏法が、日本のみに止まったならば、必ず仏語は妄経となり、これを妄語とさせないのが、学会の使命であります。
この使命のもと、仏のおことばを虚妄としないために戦い抜いて、ともに大手をふって、霊鷲山へ参ろうではありませんか。
昭和28年5月3日
創価学会第八回総会午前
中央大学講堂