指導主義について
学会は、折伏の数字をあげているが、折伏しろの号令で働くものはいない。折伏は、自分自身の功徳のためにやるのである。折伏は、邪宗、悪魔との闘争である。ここに集まっているのは、組長以上だから、次のことをいう。
仙台が三位にせまった。第三位以下の組長諸君が、これをきいてどう感じるか。『これなら、自分に功徳がないのもとうぜんだ』と思ったに違いない。
組長以上のものは、教授と指導に気をつけなければならぬ。学会は、牧口先生の時代から、指導主義である。釈迦も、さらに日蓮大聖人様も、強い指導主義であった。一級講義に出たものが、他の人に教える。これは指導ではない。わたくしの話しを一回や二回きいただけで、教えることなどできません。指導とは、折伏経典なら、経典の内容を教えることではなくして、読もうという気を起こさせることだ。
ある地区で、折伏経典の講義をしているそうです。こんなことより、読ませて、しゃべらせた方が価値的だ。受講者の感想とか、折伏教典の議論を戦わすところに、教典を読んでみようと思う気が出るものなのです。
教授とは、ひじょうにむずかしい。わたくしも、指導主義である。戸田みたいになんでも知ってみたいとか、わかってみたいと思わせる。これが指導である。
第二、指導はぜったいの信より生ず。わたくしのいわんとすることをみなに話しても、どうせわからぬから話しはしない。『言わざれば言うに似たり』である。わたくしは、ぜったいの確信をもっているから、世界に闘争をいどんでいるのです。
わたくしは、日蓮大聖人様に約束して生まれてきました。いつか、畑毛の猊下が、『もしあなたがもっと早く生まれていたら、日蓮正宗もこんなには衰微はしなかったろうに。おそすぎた』とおおせられたことがあった。
しかし、わたくしはおそすぎたとは思わぬ。わたくしは、猊下より三十年おくれて生まれることを、約束してきたのです。猊下がいまご出現だから、わたくしもいま、三十年おくれてきた。
人間は疑い深い。もしあなた方が、御本尊様を信ずる気があるなら、疑いなく信の一字をもって貫ぬきなさい。
第三に、組織を尊重せよ。組織はどこまでも尊んでもらいたい。各自が、自分の地位の荘厳なることを知ってもらいたい。地区員が地区部長の悪口などいったら、ぜったいに承知しない。ある地区に気の弱い班長がいた。組長がかげでうわさしていた。地区部長がこれをきいて、その弱い班長をやめさせようかと相談にきた。わたくしが、頭からしかったのはもちろんである。
このように、わたくしは班長、組長を愛しているが、これらの人々がおのれの力で、その地位を得たのだと思ったなら、もってのほかです。仏ですら、もし仏を信ずるものがあるなら、仏のようにして立って迎えよとある。
わたくしは、今度の登山のときに、心から、支部旗、部隊旗の通るとき、敬礼して見送りました。わたくしは、支部長や部隊長に敬礼したのではない。その旗に敬礼したのである。しかし、だれも、支部旗、部隊旗に敬礼するものはいなかった。この気持ちなくして、折伏できるわけがない。
もし、部下に自分より偉いものが出てきたなら、自分の地位を譲るぐらいの度量をもたねばならぬ。
昭和28年4月30日
本部幹部会
東京教育会館