信心とは確信なり

 

 講演ということであるが、座談的に進めたいと思う。とにかく会長は楽な商売ではない。しかし、わたくしは大きな功徳をいただいております。

 

 また、支部長や地区部長になると、ほんとうにかわいそうです。会長におこられるために、支部長、地区部長になったようなものです。しかも無料で働かせられる。しかし、それでも月給がある。やったら必ず月給がある。

 

 なんとなれば、仏様の商売だから、必ず御本尊様からくださる。仏様の商売は、もうけが大きい。いまはないけれども、必ずくる。それもたくさんはいらぬ。まあ、二、三億ももらえばよい。みんなしっかり信心して、班長、地区部長、支部長になりなさい。

 

 また、指導者の人にいうが、たとえば支部長の家に地区部長がきたとき、地区部長のために座ぶとんをそろえる支部長がなん人いるか。地区部長は班長を、班長は組長を、組長は組員を、ほんとうにだいじにしないようでは、指導者の資格がない。

 

 なぜ信心しなければならないか。わたくしは功徳をいただいている。なにがあってもぜったいやめません。

 

 信心の必要は、もともとは死後の問題が恐ろしいから、信心するのです。いまの人は、後生のことを考えない。この世の生活が良ければ、それでよいと思ってる。しかし、死後のことはじつにたいせつで、もし地獄に落ちたら、その苦しみは今世の苦悩にはくらべられない。だから後生のために信心するのです。

 

 そして、この世で良くなれば、必ず後生は良いのです。ほんとうにこの世の生活も、後生も良くなるのは、日蓮正宗だけです。(かつて紙のインフレ時代に、梵天帝釈をしかって、難関をきりぬけられた先生の体験を話される)要は、御本尊様をいかに信ずるかである。

 

 太田殿の御書にもありますように、信心は確信です。ぜったいに確信をもてば、必ず幸福になるのです。いかなることがあろうとも、信心の強いものにはだれも頭があがらない。

 

このような確信もない、折伏もできないようなものは、市ケ谷(分室)の相談にきては困る。ダメです。折伏と信心とをガッチリとやりなさい。

 

昭和28年3月15日

江東総支部第二回総会

豊島公会堂