指導者の立ち場

 

 入信者の数からみた場合、われわれの目的地は、あまりにも遠すぎる感がある。二十年、三十年後を予想する大業であれば、短期間の成績によって、云々はいえないことではあるが、世界の情勢とにらみあわせたとき、これではならない。来月は、しっかり、がんばってもらいたい。

 

 各支部の報告からみて、支部長の熱と確信が、いかに支部活動の成績に響くかが、明瞭である。全東洋へなさねばならぬ事業を、いま、日本において行なっている。それが、われわれなのである。諸君は、『始めはしるしなきやうなれども』云云(聖人御難事二九〇ページ)の御聖訓を、がっちり腹にすえて立つべきときです。必ず成る大業である。これは、戸田の主観ではない。

 

 権実相対のときは実を、種脱相対のときは種を、本尊混沌のときは、その峻別が、もっともたいせつなのである。これが現在の仏法なのである。御本尊様に対しての確信なくしては、信仰はなく、信力、行力がなければ、功徳はあらわれないのである。

 

 教化親ということばは、仏立講等において、いいだしたことばであって、信仰の紹介者を親と立て、師とあおぎ、その支配下にあるといったような考え方で、依法不依人の仏法を、そこないやすい、悪いことばであり、あやまった考え方であるから、今後ぜったいに用いぬよう。学会は組織体であるから、支部長とか、部隊長等があり、その指揮に従って行動することは、とうぜんであるが、教化親とは、ぜんぜん違ったものであるから、混同することのないようにしていただきたい。自分を折伏してくれた恩人は、善知識というのであって、『師にもあらず、弟子にもあらず』という立ち場なのである。

 

 学会において、教化親などとのことばをつかい、折伏した人を、あたかも自分の意志どおりに、動かしてよいのだというような、あやまった考えをもつものは、断固として処分するゆえに、このさい、はっきり認識しておいていただきたい。

 

昭和26年8月31日

支部長会

神田旧学会本部