本因妙の仏法
堀米先生の本因妙、堀猊下の三身如来についてのお話しは、もっとも尊いことと、うけたまわります。
本因妙の仏法が、わたくしどもの生活体験上の、どんなことにあたるかについて、いま少し考えてみたいと思います。わたくしは、これについて、自分の身をもって体験した、その感激と理論を、ごく少数の人々と語りあってみたいと思いましたやさき、この総会がありましたので、一場に会する人はみな同志と思い、貧しい体験を申しあげるしだいであります。
本因妙の仏法は、末法の仏法の真髄であって、とうてい、わたくしども凡夫には知りえない、深い深いものであります。
方便品にいわく『唯仏与仏乃能究尽』と。また、法師品には、『この法華経の蔵は深固幽遠にして、よく人のいたるなし』と、説かれておりますが、まことに、もっとものことであると思います。
日蓮大聖人様直流のお上人様でなければ、とうてい理解できないことでありますが、わたくしは、凡夫相応の立ち場で申しあげるしだいであります。
大白蓮華の第一号で、くわしく申しましたように、われわれの生命は三世にわたり、永遠であることは、疑いのない事実であります。なん回も、なん回も、生命として、この世に出現する事実をみとめなければ、仏法修行の価値はございません。
また、仏法が、西洋の哲学、および、その実践と異なるゆえんは、あらゆる世のなかの事実が、原因結果の法則によることを説きあかしているところにあります。であるから、われわれの生命も、原因結果の法則に支配されていることは、明らかな事実であります。
たとえて申せば、盗みをすれば、次の世に貧乏に生まれることは、ぜったいの事実であり、人を殺せば、多病早死なることも、げんぜんたる事実であり、お世辞をつかう人は、次の世に、ことばの不明瞭な人に生まれるのであります。
このように、因果に支配された命が、われわれの生命であります。生命といったところで、瞬間の連続であって、瞬間以外には、生命の実在はない、と断ぜられるのであります。その瞬間とは、真実の存在で、仏法では中道法相とも申します。
しこうして、いま、その瞬間と思った刹那は、ただちに過去となり、未来と思った瞬間は現在となって、ただちに過去にうつるので、有りといえば無く、無しといえば有り、すなわち、空という概念にあたる実在であります。
しかしながら、われわれは、その瞬間に幸福を感じ、不幸をみ、希望をもったり、失望したりする生活を送るのであります。この瞬間が、生命全体とも申されましょう。その瞬間は、さきほど申しましたように、因果の法則に支配されまして、幸福と感ずるのも、不幸と感ずるのも、過去の原因の結果であることは事実であって、ただ、その結果のみを生活の全体と考えるのは、本果の生活ともいえましょう。
そして、結果を感じて結果に生きる……それは、釈迦の仏法で、過去の因を考えて、いまの果のみが生活の全体であるならば、人類の生生発展はありません。
日蓮大聖人様の仏法と、釈迦の仏法の相違は、雲泥であると申されますのは、瞬間に起こった生活の事実を、たえず未来の原因とする、あるいは、原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります。
釈迦は、諸法が過去の結果でみるとのみ決定しているので、釈迦の仏法は、本果であります。
日蓮大聖人様の仏法は、本因であらせられるので、現在起こっているあらゆる事件を、未来の結果となる原因であると、たえず
考えなければならないのであります。その原因も、久遠に通じた原因であって、根も深く、理も法界に徹しております。
久遠に通じ、法界に徹するとなれば、その原因は、ことごとく南無妙法蓮華経であって、たんに南無妙法蓮華経であるというだけならば、これは理即の凡夫であり、われわれ名字即の位にある信者は、妙法の実体たる御本尊様をしっかりと信じたてまつって、あらゆる事件も、その原因を、久遠の実体たる御本尊様によせて考え、行動すべきであります。この立ち場で行動するならば、いかなる世間の苦しい事件も、また困難なことがらも、すべて、ご利益と変じ、変毒為薬するのであります。
御本尊様を、しっかりと信じまいらせた生活は、日常の事件を、清らかな、久遠の因として活動するのであり、また、御本尊様の功徳によって、はかりしれない生命力が涌くのでありますから、それが結果となるときには、必ず結果が生ずるはずなのであります。
こう考えてみますと、凡夫の智慧では、未来はわからないのでありますから、ただ、しっかりと、御本尊様を信じたてまつる以外に、幸福になる道はないのであります。日蓮大聖人様が、『善につけ悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』(開目抄二三二ページ)とおおせられたのは、じつに、この点を申されたのであります。
末法の悟りと申しますのは、御本仏・日蓮大聖人様の御観心たる大御本尊様を一途に信じきるのが悟りでありまして、それ以外に、悟りはぜったいにないのであります。ゆえに、われわれは、どこまでも御本尊様を信じまいらせて、広宣流布へと邁進するのが、唯一の役目であり、使命であると確信するものであります。
昭和24年10月24日
創価学会第四回総会午後
東京教育会館