語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六)……見開きページ(664-665㌻)

 

らも、その薬を飲もうとはしない。末法において貧苦のどん底にあえぎ、しあわせになりたいと願いながらも、大良薬たる大御本尊を信仰しないことである。

 

【毒気深く入って本心を失えるが故に】邪宗の害毒が深く入って、本心を失っているがゆえに。

御義口伝(七五五㌻)にいわく、

「第九毒気深入失本心故の事

 御義口伝に云く毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり、之に依って法華の大良薬を信受せざるなり服せしむると雖も吐き出だすは而謂不美とてむまからずと云う者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは而謂不美の者に非ざるなり」

 

【毒に中られて】邪宗教の害毒のために、信心の心がこわされて。

 

【死の時已に至りぬ】天台では、当に涅槃に入るべきなりという。

 文底の仏法では、末法の御本仏日蓮大聖人が寂光の宝刹に還られたこと、すなわち御年六十一歳で池上において涅槃されたことである。

 

【是の好き良薬を今留めて此に在く】天台では、経教を留めて在りと説く。

 文底の仏法では、三大秘法の大御本尊を、日蓮大聖人が、末法の時、日本の国は富士大石寺の奉安殿にのこされたことである。

御義口伝(七五六㌻)にいわく、

「第十是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差の事

 御義口伝に云く是好良薬とは或は経教或は舎利なりさて末法にては南無妙法蓮華経なり、好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり取は法華経を受持する時の儀式なり、服するとは唱え奉る事なり服するより無作の三身なり始成正覚の病患差るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る是なり。」

 

【差えじと憂うることなかれ】病気がなおらない、すなわち悩みが解決しないと心配することはない。全部解決するとのおおせである。

 

【復他国に至り】天台では、此の方に滅を現じ他方に生を現ずるなりと説く。

 文底の仏法では、日蓮大聖人が亡くなられて、霊鷲山におもむかれたことをいう。

 

【使を遣わして還って告ぐ】天台では、或は涅槃の中の大声の普く告ぐるを取って使人となし、あるいは神通を用い、あるいは舎利を用い、あるいは経教を用うる等を使人となす、今は四依の菩薩を用うなどと説く。

 文底の仏法では、別しては、代々の日蓮正宗の御法主上人猊下が末法の衆生に大御本尊を取りつがれることである。

 

【背喪せり】すでに亡くなってしまった。

 

【慈愍】あわれみ、いつくしむこと。

 

【孤露にして復恃怙なし】一人ぼっちになってしまって、たのみとするものがない。

 

【悲感】悲しみの心をもつこと。

 

【醒悟】目がさめる。折伏されて邪宗の迷いからさめること。

 

【虚妄の過】ウソつきのとが。

 

【偈】偈他の略称。偈他は梵語で、訳せば頌という。通偈と別偈があるという。別偈の中の重頌というのは、長行に説いたのを、さらに重ねて偈頌をもって説くのをいう。自我偈はこれにあたる。

 

【我仏を得てより来】自我得仏来。文上では、釈尊が仏になってから、ということであるが、文底の仏法では、この自我得仏来に重々の深い意味がある。

御義口伝(七五六㌻)にいわく、

「第十一自我得仏来の事

 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云」

 すなわち、自我得仏来を、御義口伝によって図示すれば次のようになります。

 

  我……法身如来

① 仏……報身如来

  来……応身如来

     この三身如来は無始無終の古仏にして自得なり。

② 自……九界 

  我……仏界

     この十界は本有無作の三身にして来る仏なり。

③ 自も我も得たる仏来れり、十界本有の明文なり。

 

 また御義口伝(七五九㌻)にいわく、

「第廿一自我偈の事

 御義口伝に云く自とは九界なり我とは仏身なり偈とはことわるなり本有とことわりたる偈頌なり深く之を案ず可し、偈様とは南無妙法蓮華経なり云云」

 さらに御義口伝(七五九㌻)にいわく、

「第廿二自我偈始終の事

 御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり』云云、今日蓮等の類