語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六)……見開きページ(658-659㌻)

 

界観で、①欲界(欲望の世界)②色界(物質の世界)③無色界(精神の世界)をいう。すなわち宇宙を色々に見たのである。

①欲界は下地獄界より上天上界の六欲天までのすべてをいい、食欲、性欲、睡眠欲等の存する境涯をいう。

②色界とは欲界の外の浄妙の色法すなわち物質のみ存する天上界の一部をいう。

③無色界は物質のない世界で最上の天上界をいう。

 

【生死の若しは退、若しは出有ること無く】文上の天台では、無有生死とは分段変易、二種の生死の苦がないことで、若退若出とは、五住の集があるのを退といい、無常の果が現ずるのを出という、といっている。

 文底の仏法では、本有の生死であり、本有の若退若出であり、生まれる、死ぬ、楽しむ、苦しむということは、単なる永遠の生の変化であり、御本尊を拝めば問題はなくなるのである。

 

【在世及び滅度の者なし】文上の天台では、生死(苦しみの生活)が世にあることなく、涅槃の滅に入ることはないのである、この二つは、ともに滅するのである、と説いている。

 たとえば、生命というものは、この世に現われたとか、なくなってしまったとか、そのようなことはないというのである。

 

【実に非ず、虚に非ず】文上の天台では、滅度の実でもなく、生死の虚でもないからだ、といっている。

 たとえば、生命は取り出して見せるわけにもいかず、そうかといって、生命がないわけではない。

 

【如に非ず、異に非ず】天台では、世間の隔異でもなく、出世の真如でもないからだ、といっている。たとえば、生命というものは、昔の生命と今の生命は同じかといえば、同じではない、そうかといって、違うかといえば違ってもいない。

 

【三界の三界を見るが如くならず】天台では、この三界は、三界の迷える衆生が見るようなものでなく、唯仏一人のみが明らかに見ている、といっている。すなわち、この世の中の姿は、われわれが自分自分の立ち場で見るようなものではなく、御本尊のみが世の中の姿を正しくごらんになって間違いがないのである。

 

【如来明らかに見て錯謬あることなし】ただ仏のみが明らかに間違いなくごらんになる。天台では仏のみ実智の用をそなえて実の如く三界を見るという。

 文底の仏法では、御本尊のみが明らかに間違いなくごらんになる。また御本尊を信じ拝みまいらせれば、われわれも、世の中を明らかに見る仏の智慧をいただくのである。

 

【種種の性】いろいろな根性。天台では、漸頓の根性と説き、為人悉檀を用いて善根をおこさせよという。文底では、われわれの色々な性分をいう。

 

【種種の欲】色々な欲望。天台では世界悉檀を用いよという。文底では、われわれの色々な欲望をいう。

 

【種種の行】天台では、為人悉檀を用い、愛著多いとき対治悉檀を用いよという。文底では、われわれの色々な行ないのこと。

 

【種種の憶想】天台では、憶想とは智慧、相似の解であり、第一義悉檀を用いよという。

 文底では、われわれの色々な考え、思想をいう。過去のことを思い出すことを憶といい、後のことを考えるのを想という。人々は色々と考えて、それぞれに分別が異なる。

 

【諸の善根】文底の仏法では、色々な善根とは折伏である。御本尊は、われわれに折伏をさせて、功徳を与えようと、なさっておられるのである。

 

【因縁・譬喩・言辞】前の語訳参照。文底から拝すれば、日蓮大聖人は、釈迦仏法のごとき因縁、譬喩、言辞ではなくて、下種仏法の立ち場から、われわれに親しく因縁や譬喩(講義参照)や言葉によって正法を説かれた。

 

【所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず】天台では、総じて不虚を結し七方便はみな一実に入るという。

 文底の仏法では、御本尊は少しもお休みなく、われわれを教え導き、功徳や福運を与えて下さることをいう。ただし、われわれの信心によるのである。

 

【寿命無量阿僧祇劫なり常住にして滅せず】仏が成仏してからの寿命は無量阿僧祗劫で、仏は娑婆世界にいつも常住して滅しない。文底では、日蓮大聖人が久遠元初いらい、いつも娑婆世界にお出でになることをいう。

 

【我れ本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命】これば、本因妙の文である。文上では、釈尊が五百塵点劫に成仏する前に、菩薩行をやったのだということ。根本をいえば、釈尊は御本尊を拝んで仏になった。この釈尊の我本行菩薩道に五十二位があるが、その本初住の文底に御本尊が秘し沈められている。

 文底の仏法では、日蓮大聖人久遠元初(無)において、我が身は地水火風空なりと知しめされて悟を開かれたのである。(三世諸仏総勘文教相廃立五六八㌻)すなわち無始無終の御本仏であられる。

 

【薄徳の人は善根を種えず】小法を楽う薄徳の人(前の語訳参照)は、仏がいつも世におられるのを見ると、善根をうえようとはしない。

 文底の仏法では、善根を種えずとは、折伏をしないことである。したがって福運を積むことができないのである。

御義口伝(七五四㌻)にいわく、