語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六)……見開きページ(656-657㌻)
は、皆「小法を楽える」人々である。
【徳薄垢重の者】徳の薄い、垢のたまった、汚れた者ということである。文上の天台では、徳薄とは縁了の二善の功用が徴劣なことで、垢重とは見思惑をまだ除かないことだといっている。しかし日蓮大聖人は観心本尊抄(二四九㌻)に、「一品二半(御本尊のこと)よりの外(邪宗)は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く、其の機を論ずれば(邪宗のものは)徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣(鳥やけもの)に同ずるなり」とおっしゃっておられる。ゆえに「徳薄垢重の者」とは、日蓮正宗以外の邪宗を信じ不幸にあえぐものをいうのである。
【我少くして出家し】文上では、インドの釈尊が十九歳の時に王子の位を捨てて出家し、前後六年ずつ十二年間修行したこと。天台では、出家とは、劣応は分段生死の家を出で勝応は分段変易、二種の生死の家を出ず、などという。文底の仏法では、日蓮大聖人が御本仏の身にかかわらず、若くして、出家のお姿を示されたことをいうのである。
【阿耨多羅三藐三菩提を得たり】前の語訳参照。仏の智慧をえた、成仏の境涯をえたということである。文上では、釈尊がインドで三十歳のときに成道したことである。文底の仏法では、日蓮大聖人が御本仏でありながら、竜の口の法難で成道の姿をとられたことである。
【久遠】文上では、五百塵点劫のこと。そのときに成道した仏を久遠実成の釈尊という。文底の仏法では、久遠元初のこと。そのとき久遠元初の自受用身(御本尊・日蓮大聖人)がおられた。
【但方便を以つて衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す】文上では、「小法を楽える徳薄垢重の者」を化導するために、釈尊はインドで始成正覚の姿を示し、方便の教を説いたのである。
文底の仏法では、日蓮大聖人がもともと御本仏でありながら、一応外用の辺で上行菩薩の再誕の姿を示され、また竜の口で成道の姿をとられたことをいうのである。
【如来の演ぶる所の経典】仏が説いた経典のこと。文上では、釈尊が五十年間で説いた、華厳、阿含、方等、般若などの教えをいう。しかし、文底の仏法では、日蓮大聖人は御書や説法で、南無妙法蓮華経の教のみ説かれたのである。
【度脱】人々の悩み苦しみを救って幸福にすることである。生死(悩みの生活)の苦海を度り、煩悩の束縛を脱すること。
【或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す】この文を六或といっている。己身、己事とは仏界をいい、他身、他事とは九界をいう。また、天台では、「法身を説くのは己身を説きで、応身を説くのは他身を説きで、正報を示すのは己事を示しで、依報を示すのは他事を示すで、随他意語は他身を説きで、随自意語は己身を説くである」などという。
日蓮大聖人は日眼女造立釈迦仏供養事(一一八七㌻)で、「法華経の寿量品に云く『或は己身を説き或は他身を説く』等云云、東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王……一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり」云云とおおせられている。
ここで、文上の釈迦仏法からみれば、教主釈尊とは久遠実成の釈尊である。しかし、文底の仏法からみれば、教主釈尊とは、久遠元初の自受用身、末法の御本仏日蓮大聖人であられる。すなわち、この六或の文は、ある時は仏として、ある時は九界の姿で人々を救う、日蓮大聖人の慈悲の働きを示された文である。
【実にして虚しからず】本当であってウソではない。
【所以は何ん……】天台では、ここからの六句(釈謬あることなし、まで)は、今日の応身は即これ久成の法身なることを明かすといっている。法身如来すなわち、生命の不思議な姿を説いている。
【如来は如実に三界の相を知見す】仏は、実のごとく、ありのままに、三界の相を知っている。
御義口伝(七五三㌻)にいわく、
「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」
御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿
量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云」
【三界の相】三界のすがた、ありさま。三界とは、仏教の世