語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六)……見開きページ(652-653㌻)

 

十進法、百進法、べキ進法(倍々進法)などがある。たとえば万の十倍を億とする(御書はそうである)のは十進法、万の万倍を億とするのはベキ進法である。とにかく、那由佗は十進法では現在の千億のことであるが、その他の、「無量」「無辺」「阿僧祇」「微塵」「不可思議」などという数字は、字宙時代といわれる現在の数字でも考えられぬような天文学的無数の数である。

 

【五百千万億那由佗阿祇】五に百を掛け千を掛け万を掛け億を掛け那由佗を掛け阿僧祇を掛けた、とんでもなくデカイ数である。仏教典の数は掛けた数である。すなわち三七日といえば、三に七を掛けた二十一日のことである。以下同じ。

 

【三千大千世界】三千年前のインドの宇宙観である。仏教では太陽、月、四州(地球)等を含むものを一世界とし、これを、千倍したものを小千世界、さらにこれを千倍したものを中千世界、さらにこれを千倍したものを大千世界または三千大千世界、または三千世界という。そして宇宙にはこのような三千大千世界が数限りなく存在するというのである。

 

 ところが、現在の天文学では、われわれの住む地球は土星や火星などとともに太陽という恒星(みずから光る星)のまわりを回っている惑星であるという。そして夜空に輝く星はすべて太陽のような恒星であり、銀河系宇宙は直径約十万光年(一光年とは光が一年かかって進む距離。光は一秒に三十万キロ即ち地球を七回り半する)厚さは中心部で約一万五千光年の円盤の形をしているが、その中に約一千億個の恒星をふくんでいるという。また大宇宙には、この銀河系宇宙やアンドロメダ座大星雲のような直径十万光年もある小宇宙が、なんと三十億個も存在するというのである。これは今世界で一番大きい、アメリカのパロマ山天文台の二百インチ(約五㍍)望遠鏡で見える限界の半径二十億光年内の数である。

 

 数こそ違え、このような三千大千世界という考え方は、現在の天文学とも一致するのである。キリスト教のような低級きわまる考え方と比べるとおもしろいではないか。すばらしいではないか。

 

【抹して微塵と為して】こまかく、すりくだいて、無数のちりとして。

 

【思惟し校計して】頭で考えて、計算して。

 

【算数の知る所に非ず】算術(数学)で計算してもわからない。

 

【心力の及ぶ所に非ず】心の中で考えてもわからない。

 

【声聞・辟支仏】方便品第二のところで前述した。辟支仏とは縁覚をいう、縁覚は独覚ともいい、仏のいない世界に出て、飛華落葉などの現象を見てこれを縁として空理を悟る境涯である。

 

【無漏智】無漏とは煩悩のなくなったこと。煩悩がなくなれば、ものごとを正しく分別し判断することができるというので、無漏智という。声聞縁覚の悟りである。もちろん御本尊の智慧から見れば、比べものにならないほど低いものである。

 

【限数】限りの数。おしまいの数。

 

【阿惟越致地】阿毘跋致と同じ意味で、不退地と訳す。非常に長い間、菩薩の修行を重ねて、その信解は不退転であるとの確信を得たもので、かならず仏になると定まった地位である。

 

【今当に分明に汝等に宣語すべし】今、かならず明らかにわかりやすく、おまえたちに説いて聞かせよう。

 

【娑婆世界】娑婆は梵語で、訳せば勘忍ということである。現在、われわれの住むこの世界のこと。勘忍世界というのは、貪瞋癡の三毒が強盛の人々が住んでいて、仏法で幸福になるのに多くの苦悩を勘忍(たえしのぶ)しなければならないからであるという。

 

【導利】法を説いて衆生を導き利益する。

 

【中間】文上の釈迦仏法では、我実成仏已来といって過去久遠を明かされている。その久遠実成の時より、インドに釈迦牟尼仏として出現するまでの間を指す。この間において種々の仏として出現しているのである。しかし、文底の仏法からいえば、日蓮大聖人が久遠元初に御本仏であられた時から、末法に御出現になられた時までを中間という。ゆえに久遠実成の釈尊も、三千年前にインドに出現した釈尊も、あらゆる仏は、すべて久遠元初自受用身の垂迹仏であり、すべて出現の時は中間となるのである。

 

【然燈仏】法華経序品に説かれる、過去の日月燈明仏の八王子の中の末子である。他の七王子とともに、父の高弟たる妙光に従って法華経を修行し、八王子が次第に成仏して、最後に成仏した仏である。生まれた時に身の光りが燈のごとくであったために名づけられ、成仏の後もこのように称した。釈尊因位の時に、儒童菩薩として蓮華を供養したのは、この仏である。然燈仏はすでに釈尊の師であって、文殊の八代の弟子(文殊は当時の妙光のこと)であるところから、文殊を釈尊の九代の師という。

 寿量品の文上では、然燈仏は久遠実成の釈尊が中間(前項参照)に出現した仏ともなるが、文底の仏法では、この然燈仏も久遠実成の釈尊も、ともに久遠元初の自受用身が中間において、垂迹仏として出現した仏である、ということになる。然燈仏等の等とは、中間にあらわれた、あらゆる仏を意味するのである。

 

【涅槃】滅・滅度・寂滅・解脱・円寂等と訳す。生死の境を出離するのを涅槃という。また自由・安楽・清浄・平和・永遠等をそなえた幸福境で、慈悲・智慧・福徳・寿命