三重秘伝抄第一 日寛上人

 問う啓蒙の第五(二十八)に云く「未発迹の未の字・本迹一致の証拠なり已に発迹顕本し畢れば迹は即ち是れ本なるが故なり」云云、此の義如何、

 難じて曰く若し爾らば未顕真実の未の・権実一致の証拠なりや、其の故は已に真実を顕わし畢れば権は即ち是れ実なるが故なり。

 日講重ねて会して云く権実の例難僻案の至りなり、若し必ず一例なる則は宗祖何ぞ予が読む所の迹と名づけて但方便品を誦み予が誦む所の権と名づけて弥陀経を誦まざるや等云云、今大弐・莞爾として云く此の難太だ非なり、何となれば権実・本迹倶に法体に約す故に是れ一例なり、若し其れ読誦は修行に約する故に時に随って同じからず、日講・尚・修行を以て法体に混乱す、況んや三時弘経を知らんや、応に明文を引きて彼が邪謬を顕わすベし云云、……天台・章安・妙楽・蓮祖・並びに是れ僻案なりや、日講如何。

 又修行に約して若し一例を示さば凡そ蓮祖は是れ末法本門の導師なり、故に正には本門・傍には迹門なり、故に予が誦む所の迹と名づけて方便品を誦みたまえり、天台亦是れ像法迹門の導師なり、故に正には法華・傍には爾前なり、故に亦弥陀経等を読む、而も亦他人の読誦に異るか「口に権を説くと雖も内心は実法に違わず」云、豈・予が誦む所の権と名づけて弥陀経を読むに非ずや。日講如何。

 

法体

 凡そ仏教には法体と修行との二つがあります。最高唯一の仏教たる日蓮正宗においては、法体は三大秘法の南無妙法蓮華経であります。すなわち、われわれの信仰する御本尊(法体)は、三大秘法の大御本尊、寿量品文底下種の御本尊以外にはありえないのであり、釈尊の出世の本懐といわれる法華経や寿量品でも、腐った御飯のようなもので、絶対に信ずべき本尊とはならないのであります。ゆえに日蓮大聖人は、御書に、次のようにお説きになっておられます。

 

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし……此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」(上野殿御返事一五四六ぺージ)

 

「小乗経・大乗経並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬となるベからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事一四五八ぺージ)

 

「当品(寿量品)は末法の要法に非ざるか、其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり」(御義口伝七五ニページ)

 

修行

 それでは、なぜ日蓮正宗では、朝に晩に、法体として功徳のないといわれる方便品・寿量品を読誦するのかといいますと、これは修行のためであります。法体に約するのではないのであります。しかし、この両品読誦には深い意義があります。すなわち、まだ日蓮正宗の修行には、正行と助行とがあり、正行として題目を唱え、助行として方便品・寿量品を読誦するのであります。また助行においても寿量品を正とし、方便品を傍とするのであります。あたかも正行は米飯に当たり、助行は味噌汁や漬け物が米飯の味を助けるのと同じようなものであります。

 

 ○法体(三大秘法の大御本尊)

 

    

 ○修行(自行)-正行(題目)

        ―助行 ―正(寿量品)

            ―傍(方便品)

 ○修行(化他)-折伏

 

正宗と邪宗

 しかるに、日蓮正宗以外の邪宗日蓮宗のやからは、法華経二十八品を法体と誤ったり、あるいは二十八品全部を読誦したり、あるいは二十八品を書写したり、あるいは観音品や陀羅尼品を読誦したり、あるいは方便品を読誦してはいけないといったり、あるいは題目を唱えるほかには、方便品も寿量品も読誦してはいけないなどといって、修行の面でも非常に違った師敵対の大謗法を犯しているのであります。

 

 かんたんに考えても、この末法のときに二十八品読誦なんかしていては、もっとも肝心な折伏や唱題がおろそかになり、また両品読誦をやめれば御本尊の功徳を助けることができず、いずれも日蓮大聖人の仰せにそむく大謗法になるのであります。一方、法体については、彼ら邪宗の徒の本尊雑乱の大謗法は、今さら、いうまでもないことであります。

 

 先にかかげました日蓮大聖人の御書や、第二祖日興上人等の仰せでもわかるごとく、正行としては題目を唱え、助行として方便品・寿量品を読誦するのが、もっとも正しい修行であり、これ以外には日蓮大聖人の仏法の修行はありません。

 

 ゆえに日蓮大聖人も、御在世中は御みずから、助行として迹門の肝心たる方便品と本門の肝心たる寿量品とを読誦されて勤行なされ、日興上人も朝に晩に方便寿量の両品を助行として読誦されたことは、彼ら邪宗身延派の古い記録(録内啓蒙等にあり)等にさえも、のっているのであります。

 

 日蓮大聖人は、四菩薩造立抄(御書全集九八九ぺージ)に厳然と、「日蓮が弟子と云って法華経(御本尊)を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」と御命令になっておられるのでありますから、われわれも当然、方便品・寿量品のみを読誦すべきであります。しかして、われらが方便品・寿量品を読誦するのには、甚深の相伝があります。

 

 これについて、日寛上人は、当流行事抄や、末法相応抄に、整然と余すところなくお説きになっておられますから、詳しくは、当流行事抄等を拝すべきであります。

 

方便品

 方便品を読誦するのは、一には所破のため、二には借文のためであります。この方便品は、いわゆる釈尊の法華経ではなくて、日蓮大聖人が、「予が読む所の迹門」とおおせられた、体内の方便品であります。体内の迹門とは、顕本已後の迹門をいいます。

 所破のためというのは、この体内の方便品といえども、体内の寿量品あるいは御本尊よりは劣るゆえに、破して読むのであります。また借文のためとは、体内の方便品の文を借りて、久遠名字の所証の法、すなわち三大秘法の大御本尊様のお姿や、功徳をあらわすために読むのであります。

 

寿量品

 寿量品を読誦するのは、一には所破のため、二には所用のためであります。同じ寿量品の一文でも、その顕本には、文上顕本と、文底顕本の両義があり、文上は五百塵点劫に成道した色相荘厳の釈尊を指し、文底は久遠元初の御本仏すなわち日蓮大聖人を示しています。

 

 しかし、文上の寿量品にも、体内と体外があり、体外はまだ文底下種の御本尊の顕われない寿量品をいい、体内とは顕われた寿量品をいいます。日蓮大聖人のお読みする寿量品として読むときに、文上体内の辺は、御本尊より劣るゆえに所破となり、文底の辺は、御本尊を秘し沈むるゆえに所用となるのであります。

 

方便品寿量品講義

 このように、われらが朝に晩に読誦する方便品・寿量品は、釈尊の法華経ではなくて、下種が家の日蓮大聖人のお読みする方便品・寿量品であると、正しく拝するのは、相伝家たる日蓮正宗のみであります。

 

 しかして、恩師戸田城聖会長は、この法華経方便品寿量品講義(一級講義と称した)において、いつも日蓮大聖人のお読みになる下種家の法華経の読み方、すなわち日蓮大聖人の血脈抄および御義口伝による読み方による講義をされて、天台流の読み方をする謗法を、厳しく戒めていたのであります。

 

 そして、この方便品寿量品講義によって、われら学会員に、正しい信心のあり方を、わかりやすく話され、日蓮大聖人の正意たる日蓮正宗の御本尊の最高唯一なるゆえんを師子吼されていたのであります。

 

 ゆえに、この「日蓮正宗・方便品寿量品講義」は、もちろん、恩師戸田会長の講義をまとめたものではありますが、はたして恩師の講義の精神を、正しく伝えることができたかどうかを恐れるものであります。