日蓮大聖人の仏法の読み方(文底読み)

 

 今まで法性の淵底で静かに休んでおられた、末法の御本仏であられる日蓮大聖人は、この末法の時、日本の国に厳然と御出現なされて、われわれ末法の衆生に、次のようにおおせられました。

 

 南無妙法蓮華経の智慧は、境智冥合のすばらしい智慧であって、時間的には永遠にわたり、空間的には大字宙それ自体の広さをもち、普通の人には想像もつかないものである。

 

 日蓮正宗に入信して、この南無妙法蓮華経、三大秘法の大御本尊を信じ奉ることは、なかなか難しいことである。とくに、世の中の学者や大家といわれるような利己主義者たちは、自分だげの挟い考えにとらわれて、御本尊の威光を知ることができないのである。それで折伏しても反対するのである。

 

 迹門の仏は百千万億の無数の諸仏に親近したというが、南無妙法蓮華経という仏(御本尊)は、百千万億の無数の諸仏を出生した根源の御本仏であられる。ゆえにわれら末法の衆生は、長い間の難行苦行もなく、南無妙法蓮華経を信じて唱えているだけで、百千万億の無数の諸仏について、あらゆる仏法を修行した以上の功徳がある。

 

 また、御本尊を受持して題目を唱えたので、地涌の菩薩としてのりっぱな名前は十方世界にとどろき、諸天善神の加護があるのも当然のことである。

 

 末法の御本仏は、法は南無妙法蓮華経、人は日蓮大聖人という人法一箇の大御本尊であらせられるから、甚深で未曾有の仏法である。信ずる音もまた、文底下種の大御本尊を、己身のうちに成就できるのである。

 御本尊が、われわれの悩みに応じて解決して下さる、そのお心は、われわれには、わかりにくいのである。

 

 末法の衆生よ、と親しく呼びかけられ、ここで御本尊の功徳を話されたのである。

 

 日蓮大聖人は久遠元初いらい、すなわち無始の昔より、いろいろな因縁や、いろいろのたとえ話をもって、広く南無妙法蓮華経の教えを説かれ、御本尊を弘めてこられた。

 

 また無数の利益と罰の方便をもって、衆生をみちびいてこられたのである。また人生には執着がつきものであるが、その執着を明らかに見させて、かえって執着を使う境涯になって幸福になることを教えて下さったのである。

 

 なぜならば、大御本尊は、真の方便、知見波羅蜜を、ことごとく、具足しておられるからである。すなわち権教、迹門、本門の仏の因行果徳等、あらゆるものを具足しておられるので、御本尊を輪円具足あるいは功徳聚と申し上げるのである。

 

 また、ここで、末法の衆生よ、と呼びかけられ、次のように説かれたのである。

 御本尊の御境涯は広大無辺で、迹門の仏の知見などとは、比べものにならないほど深遠である。迹門の仏は、無量、無礙、あるいは力、無所畏、禅定、解脱、三昧というようなものを全部備えており、深く無辺際のほとりにはいって、一切の未曾有の法成就しているというけれども、迹門の仏の分際では、まだまだ南無妙法蓮華経の境涯はわからないのである。文底の本仏すなわち大御本尊は、このような迹門や本門の仏はもちろん、それ以上の高い法力をもっておられるのである。ゆえにわれら末法の衆生は、大御本尊を無二に信ずることによって、迹門や本門の仏の力以上の功徳をうけることができる。もちろん迹門のもっているような、四無量心とか四無礙智等は、われわれには全く必要がないのである。

 

 末法の衆生よ。末法の本仏は、迹門の仏と違って、法を説くときには「いろいろの分別をもったり、巧みに多くの法を説いたり、言葉が柔らかで人々の心を喜ばせたり」はしないのである。

 

 説くところは、ただ南無妙法蓮華経の一法であり、折伏は厳父のごとく厳しい慈悲で説き、かえって人の心をおこらせるのである。

 

 しかしながら、われわれが大御本尊を拝んでゆくと、御本尊はいろいろの分別をもち、巧みに人生のあらゆる指導をして下さり、御本尊に言葉がないから、やさしいような気がするのである。また大きな功徳があるから、われわれの心を喜ばせて下さるのである。

 

 末法の衆生よ。要点をとっていうならば、末法の御本仏は、いまだ、かつて、あらざる法、インドの釈尊も、本門文上の仏も知らないところの、文底深秘の大法をあますところなく成就せられたのである。

 

 大御本尊の御境涯は、非常にめずらしく、相手にはわかりがたい法であり、日蓮大聖人だけが、よくお知りになっておられて、われわれにはわからないのである。

 

 しかし日蓮大聖人は、釈尊のように「止みなん」などとはいわれず、われわれ末法の衆生に、あますところなく三大秘法としてお説きなされておられるのである。

 

 仏と仏とのみ、きわめつくしたというが、そのきわめつくした迹仏の境涯は、非常に浅いものである。末法の御本仏のみが、宇宙にみなぎる、あらゆる諸法の実相をきわめつくされたのである。その諸法の実相を、根本的に顕わされたのが、御本尊であり事の一念三千の法門であられる。

 

 それは、いわゆる、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である。

 

 御本尊の一瞬の十如是の働きをみれば、如是相とは、日蓮大聖人の凡夫のお姿、如是性とは日蓮大聖人のあらゆる人々を救わんとされる御本仏の御精神、如是体とは日蓮大聖人の御生命、如是力は御本仏のすごい御力と大功徳、如是作は願いをなんでもかなえて下さる御本仏の働き、如是囚は、久遠元初のとき、この末法に御出現になって大法を説かれる原因をつくっておられる。如是縁は、われわれ末法の衆生を縁として御出現になっておられる。如是果は、竜の口の御法難で本仏の境涯をあらわされた。如是報は、御本仏として身延で安らかな九年の境涯を楽しまれた。如是本末究竟等は、如是相から如是報まで、ことごとく一瞬の御本仏の姿それ自体であらせられるということである。