御観念文について

 

〔御観念とは〕

 この観念ということは、自分の心に念じて卸本尊に申し上げることであります。

 

「題目をあげながら、いろいろ考えが出てくるのですが、いいでしょうか」と聞く人がありますが、悪いといっても出てくるものはしようがないでしょう。また、やめろというわけにもゆかないでしょう。

 

 しかし、御観念文をやるときには、気をつけなけれまならないのであります。

「彼は、とんでもない人だ」などと思いながら御観念をいたしますと「とんでもない人だ」ということを御観念申し上げていることになってしまいます。

「あいつ、あとでぶんなぐっでやろう」などと思っていると、それが御観念文になってしまいます。

 

 口では「本門寿量品の肝心、文底泌沈の大法……」とやっていって、心の中で別のことを考えていれば、その考えていることの方が御観念文になるのであリます。口でいっている方が御観念文になるのではありません。

 

〔初座〕

 生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩等・惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益法味倍増の御為に。

 

 これは、朝、御本尊に向かって三度題目を唱えてから東の方にきます。そのときには、大日天を中心にして、宇宙の大生命のうち化他行をやりませんが、自行の御利益すなわちみずから題目を唱えて功徳によってなりましたところの大梵天・帝釈天、あるいは増長天王・持国天王・広目天王・毘沙門天王という四天王から、あるいは、大日天・大月天・大明星天・天照大神・正八幡大菩薩、その他あらゆる法華守護の諸天善神がずーっと並んでおります。

 

 その諸天善神に向かって、われわれは法味を差し上げるのであります。大御本尊を受持するがためのゆえに、われわれを日夜にお守り下さっているのは、まことにありがたいことです。こういってお礼を申し上げるのであります。

 

 ここに面倒なことが書いてあります。諸天昼夜常為法故而衛護之これは法華経の中の言葉であります。諸天が昼夜に常に法の為のゆえにこれをお守り下さる、これをお礼申し上げることなのであります。

 

「諸天善神、昼夜にわれわれが御本尊を受持しているがためのゆえに、創価学会員同志一同をお守りくださって、ありがとうございます」会長は、このように申し上げております。

 

 これなら、はっきりしているでしょう。

 初座の御観念文がすんで、今度は、二座で御本尊の方に向かいますと、その諸天善神が、その中には鬼子母神もあれば、あるいはまた夜叉もいる、みな法華守護の約束をした連中が、さあーっと、われわれの後ろの方に並んで控えていることになります。

 

 そして、大御本尊に向かって唱える経文、題目をきちんと聞いているのであります。荘厳な儀式であります。

 中には、こういうことを言う人があります。あっちでも、こっちでも、この御観念文をやったら、梵天・帝釈・諸天善神が忙しいだろうというのです。ひどい人になりますと、朝九時すぎてやったら、梵天・帝釈がいなくなるなどという人があります。そんなバカな話はありません。いつでもいるにきまっております。われわれの生命の中にも、きちんとおります。大宇宙の中にある梵天・帝釈も、きちんと向こうへ並ぶのです。何千人やったって、かまわないのであります。分身散体といいまして、仏法においてのみいわれる大哲学があるのであります。

 

〔二座〕

 南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思・境智冥合・久遠元初自受用報身・如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊・御威光倍増・御利益広大・御報恩謝徳の御為に。

 

 これは仏の十号と申しまして、御本尊に向かって左の方に「福十号に過ぐ」とある、あの十号と、この十号とは違います。福十号は、釈迦仏法の仏の十号なのであります。ゆえに「福十号に過ぐ」とは、御本尊を信ずる功徳は、釈迦仏法の仏の福運にまさると仰せであります。

 

 これは末法の御本尊の十号になるのであります。御本尊の十の御徳を申し上げて賛嘆しているのであります。御本尊の別名といいますか、十の位といいますか、十の御資格といいますか、それぞれの意味を述べてみますと、

 

①南無本門寿量品の肝心

 寿量品の肝心といえば、経文の心のように思うでしょうけれども、日蓮大聖人のお読みになった寿量品は生きている生命の中心が、寿量品の肝心であります。寿量品それ自体が生命であります。その肝心、それが南無妙法蓮華経だというのであります。

 

②文底秘沈の大法

 寿量品の我本行菩薩道の本因初住の文底に秘し沈めてあるところの仏、御本尊というのであります。

 

③本地難思

 御本尊の本地というものは、なかなか、わからないものであります。本地とは、いわば大宇宙それ自体なのであります。

 

④境智冥合

 境と智というものは、冥合しなければいけません。境とは客観世界であり、智とは主観世界であります。客観世界と主観世界とが、きちんと合っていなければなりません。御本尊の境は、三世にわたり大宇宙の大きさであります。智は御本仏であります。それが冥合しているのであります。

 

⑤久遠元初自受用報身

 久遠元初というのは、大御本尊の本地であります。釈迦の本地は久遠なのであります。久遠元初とは、そのまま大宇宙それ自体なのであります。時間的には無始無終であり、現在の一瞬にもふくまれます。自受用報身、まず報身というのは、法身如来、報身如来、応身如来とあるうちの、報身をもって主にしますから、こういいます。

 

 久遠元初の自受用報身、だれのために生まれたのでもありません。他受用報身というのは、人のために何かしてやらなければならないというので、生まれたのをいうのであります。同じ仏でも、自受用報身とは、そのままということであります。大御本尊は、南無妙法蓮華経そのままなのであります。それで自受用報身というのであります。

 

⑥如来の御当体

 南無妙法蓮華経如来寿量品の、その如来の御当体で、御本仏の本体であらせられる、これが御本尊であります。

 

⑦十界本有常住

 この本有常住ということを、邪宗身延あたりでは知らないのであります。邪宗身延派では勧請してきたというでしょう。十界勧請の曼茶羅ということを邪宗ではいいます。それは間違いであります。

 

 十界本有常住というのは十界にそのまま御本尊がいらっしゃる。そのままいらっしゃるがゆえに、ほかの九界も全部そろっているということであります。これが日蓮正宗の大曼茶羅なのであります。

 

⑧事の一念三千

 事の一念三千というのは、御本尊のことであります。事とは仏のおおせのままの行動を事というのであります。すなわち久遠元初自受用報身のお振舞自体であります。その事を理論で説明しているのは、理の一念三千になります。

 

⑨人法一箇

 人と法とは離れていないのであります。日蓮大聖人が御本尊であらせられれば、御本尊も日蓮大聖人であらせられます。

 人に即して法、法に即して人、これが御本尊のお姿であります。日蓮大聖人がいらっしゃらなければ、大御本尊はないのでありますから、南無妙法蓮華経といえば日蓮大聖人なのでありますから、人と法とは離れません。

 

⑩独一本門戒壇の大御本尊

 独一本門というのは、釈尊の仏法では、法華経二十八品のうち、前の十四品を迹門といい、後の十四品を本門といいますが、日蓮大聖人の仏法では、この釈尊の迹門も、本門も、あわせて迹門に扱い、南無妙法蓮華経それ自体が本門になります。

 

 ですから、独一という言葉を使うのであります。

 独一本門とは、釈尊の本門とは全然違うという意味であります。その独一本門の戒壇の大御本尊と、仏に十の讃め言葉を申し上げて、その威光倍増、御利益広大、御報恩謝徳のためにするのであります。