我時語衆生。常在此不滅。以方便力故。現有滅不滅。余国有衆生。恭敬信楽者。我復於彼中。為説無上法。
【我時に衆生に語る常に此に在って滅せず方便力を以っての故に滅不滅有りと現ず余国の衆生の恭敬し信楽する者有らば我復彼の中に於いて為に無上の法を説く】
(文上の読み方)
通解(六二四ページ下段)にあります。
(文底の読み方)
仏の力用を説いたところであります。この我はいつも仏すなわち御本尊です。大聖人が題目を唱えられ、われわれを化導なさったことであります。けっして御本尊というものは、滅しないものであります。此とはいつでも娑婆世界であります。すなわち、われわれの生命の中に、いつも御本尊がいらせられたのであります。しかし、方便の力をもって、滅不滅を現じております。すなわちこれを生命論でいえば、われわれの生命は、この大宇宙において厳然として生きている、方便として、滅不滅を現じているにすぎないというのであります。
そうして、今この地球外の余国に衆生があって、同じく法を求むるならば、彼らの心の中に、生命の中において、また無上の法、南無妙法蓮華経を説くというのであります。この仏法の宇宙観は地球だけに限っていないのであります。地球と同じものが、地球上においてわれわれが生存していると同じ状態のものが、大宇宙にはいくつもあるという考え方であります。これは今の天文学でもいっていることであります。
他の仏国土に衆生があって、仏を求めるならば、そこでまた無上の法、三大秘法の南無妙法蓮華経を説くというのであります。余国の仏も、ことごとく南無妙法蓮華経の分身仏であると、きめつけたお言葉であります。
汝等不聞此。但謂我滅度。我見諸衆生。没在於苦海。故不為現身。令其生渇仰。因其心恋慕。乃出為説法。神通力如是。
【汝等此れを聞かずして但我滅度すと謂えり我諸の衆生を見るに苦海に没在せり故に為に身を現ぜずして其れをして渇仰を生ぜしむ其の心の恋慕するに因って乃ち出でて為に法を説く神通力是の如し】
(文上の読み方)
通解(六二五ページ上段)にあります。
(文底の読み方)
ところで、衆生は仏が大御本尊がただ滅度していると思い常住しているということを信じない。すなわちわれわれの生命の中に、仏が住まっているということを知らないというのであります。これを、われわれの生命を離れてみれば、インドであろうと、中国であろうと、朝鮮であろうと、大御本尊は厳然としていらっしゃいます。しかし、信心をしない者は、長く仏はおらないと思っているのであります。思っているがゆえに、彼らの生活は苦しみの世界にいるのであります。
苦しみの世界から抜けだしたいと思うならば、大御本尊を拝し奉って、仏は滅度してはいない、ここに厳然としていらっしゃいます、そうして苦海に没在している、われわれ衆生を救って下さるのだという確信に、立たなければならないのだと思うのであります。
われわれをお救い下さるために、現身をお現わしにならない、仏がいらっしゃるということを、はっきりとわからせないようにしてあるのであります。ところが、その苦しみの世界から渇仰を生じて恋慕することが因となって、御本尊は、仏は、現われて説法なさるのであります。御本尊が現われて説法するとは、すなわち功徳が現われるということであります。このように、御本尊の神通力というものは、広大無辺のものであります。「お前は、こういう商売をやれ、お前の商売の仕方が悪いから、そんなになるのだ」「こうせねばならん」「ああせねばならん」と心に教えて下さるのであります。