衆見我滅度。広供養舎利。咸皆懐恋慕。而生渇仰心。衆生既信伏。質直意柔輭。

 

【衆我が滅度を見て広く舎利を供養し咸く皆恋慕を懐いて渇仰の心を生ず衆生既に信伏し質直にして意柔輭に】

 

(文上の読み方)

 通解(六二四ページ下段)にあります。

 

(文底の読み方)

 ところが、衆生はみな仏の滅度を見て、すなわち、大聖人が御涅槃になってから、御本尊を拝むようになったというのであります。

 

 舎利を供養するとは、この仏の骨についても二通りあります。砕身の舎利、全身の舎利とありまして、砕身の舎利とは仏の骨であります。全身の舎利というのは釈尊の仏法では、法華経、大聖人の仏法では御本尊であります。これを法の舎利ともいいます。

 

 また別の見方をしますと、われわれの生命の中に、厳然と仏が現われますれば、不幸がないはずであります。すなわち、御本尊を拝んでいるときは、気がつきませんけれども、われわれの生命の中に御本尊がきちんと現われていらっしゃいます。しかし、不幸の者は、もう仏が滅度してしまって、おられないと思う。苦しく、悲しくなってくる、貧乏する、つらい、そこで、これはたまらぬ、仏を拝もうということになります。それが舎利を供養するということであります。

 

 そうして御本尊を供養して、御本尊に対して恋慕の情を抱く渇仰の心を生じます。こうなれば大したものであります。なかなか御本尊を恋慕するというようなわけにはいきません。御本尊が恋しくて渇するように拝むというのがほんとうの信心であります。しかし、いやだけれども拝まないと罰がこわいから拝む、中には功徳をもらいたいために拝むという人も、だんだん信心していきますと、しまいに恋慕を抱いて、渇仰の心を生ずるようになるのであります。

 

 質直というのは正直ということであります。正直には世法の正直と仏法の正直との二色ありまして、仏法の正直と申しますのは、御本尊にそむかない心をいうのであります。意柔輭というのは、仏に対して、大御本尊に対してすなおになるということであります。ただ正直一途に、われわれの頼るのは大御本尊だけであると信じ、心は御本尊に対してすなおになる、ここに功徳が現われざるをえないというのが、この次の文にあるのであります。

 

 一心欲見仏。不自惜身命。時我及衆僧。倶出霊鷲山。

 

【一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出ず】

 

(文上の読み方)

 通解(六二四ページ下段)にあります。

 

(文底の読み方)

 このところは、三大秘法の依文とされております。「一心欲見仏、不自惜身命」これは本門の題目になります。「時我及衆僧、倶出」が本門の本尊。「霊鷲山」が本門の戒壇になります。

 

 すなわち図示すれば、

 

 一心欲見仏、不自惜身命……本門の題目

 時我及衆僧、倶出……本門の本尊

 霊鷲山…………本門の戒壇

 

 心がすなおになって、一心に仏を見奉らんと欲して、あえて身命を惜しまない、この時に、大聖人が衆僧といっしょに霊鷲山に現われます。われわれの体が霊鷲山になります。そこで、日蓮大聖人即大御本尊の力が、われわれの体に、満ち満ちてくるのであります。

 

 なぜ三大秘法になるかといいますと、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまずという信心の姿は、題目を唱えることであります。不自惜身命の心がなかったならば、題目は唱えられません。

 

 暴力なんかやったことがなくて、逆に暴力をやられているのに「創価学会は暴力だ、暴力だ」なんて悪口をいわれます。折伏に行ってほめられた覚えがないでしょう。ですから、自ら身命を惜しまずの心がなかったならば、広宣流布はできません。

 人に悪口をいわれたり、なぐられたくらいで、へこんでしまうくらいなら、最初からやらない方がいいのであります。

 

 我及び衆僧と倶にとは、御本尊であります。この時は、末法の時と読むのであります。我は仏であります。及は菩薩・衆僧は二乗、倶出は六道であります。南無妙法蓮華経日蓮とは我、及とは釈迦多宝の二仏と上行等の四菩薩。その他の舎利弗等の方々が衆僧であります。御本尊には南無妙法蓮華経日蓮とお認めになっております。そうして多宝如来と、釈迦牟尼世尊と二仏並座して、両方に、上行・無辺行・浄行・安立行、その下に、薬王菩薩その他提婆達多まで、十界の衆生を代表して、きちっと現われております。

 ですから、この時我及衆僧、倶出を、本門の本尊と読むのであります。

 

 次に、霊鷲山を本門の戒壇というのは、霊鷲山とは仏のいます所をいうのですから、われわれの御本尊をまつってある場所も、霊鷲山であります。その霊鷲山に不幸があるわけはないのであります。

 

 ただし、信心の厚薄によるのであります。これは、三大秘法がもうすでに、釈尊の時代にも、このように説かれていて、日蓮大聖人の時においては、はっきりと打ち出されてきているのであります。