自我偈

 

自我得仏来

 

【我仏を得てより来】

 

(文上の読み方)

 この自我得仏来から始まる偈を自我偈といい、非常に有名な経文であります。しかし「我仏を得てより来」すなわち釈尊が仏になってからと一応読むのは、教相の読み方であります。

 

(文底の読み方)

 ところが、日蓮大聖人の読み方は、自我得仏来の自と得に、丸をつけてもらえばよい、そうすると、自得となります。我仏来が残るのであります。我は法身如来、仏は報身如来、来は応身如来の三身如来となります。その三身如来を自ら得たるものなり、自得なりと読むのが大聖人の読み方になっているのであります。

 

 法身、報身、応身という三身即一身の読み方は、何を意味するのかといいますと、

 

 法身というのは、仏としての条件を持っている根本の生命をいうのであります。

 報身というのは、仏の智慧をわれわれ民衆に授けられる、その智慧身をいうのであります。

 その仏が末法に日蓮大聖人と現われた姿を応身というのであります。

 

 この三身即一の境涯というものは、自ら得たるものなり、仏の境涯というものは、誰人からもおそわるものではないのであります。いかに法華経をおそわり、また仏法の研究をして「仏というものを私に教えて下さい」と聞かれても、それは教えられるものではないので、自得しなければなりません。

 

 我仏来を自ら得たり、これが仏の境涯であります。そこで日蓮大聖人の仰せには、われわれが、観心の大御本尊に向かって題目を唱えていれば我仏来、三身即一の境涯を自得するぞとおっしゃっているのであります。それが自我得仏来であります。

 

すなわち図示すれば次のようになります。

  我……法身如来・

① 仏……報身如来・ 三身如来……自得(無始無終の古仏)

  来……応身如来・

 

② 自……九界・ 十界……本有無作の三身にして来る仏なり

  我……仏界・ 

 

③自も我も得たる仏来れり……十界本有の明文なり

 

(別 釈)

 くわしくは、御義口伝(御書全集七五六ぺージ)によりまして、申し上げてみます。

 

第十一自我得仏来の事

 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云、

 

 この御義口伝は、日蓮大聖人が日興上人に口伝なさったものであります。それを日興上人が書き留めておかれたものであります。大聖人の仏法のうちで、非常に大事なものであります。

 

【御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり】

 一句とは自我得仏来が一句であります。これが三身、法身、報身、応身をはっきりとされたものであると、おっしゃるのであります。

 

【自とは九界なり我とは仏界なり】

 自とは九界、我とは仏界。九界は、われわれの普通の境涯のごとく、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道、この他に、声聞、縁覚、菩薩を合わせて九界というのであります。

 

 我は御本尊の御境涯。一切衆生を、どうかしてよくしてやりたいという慈悲に満ち満ちた、そして力のごく強い御生命、これが仏界であります。

 

【此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり】

 この仏界も九界も、合わせて十界は、本有常住のものなのであります。だれが作ったというものではないのであります。

 

 これは、自分の生命の中に、永遠の昔から、そのまま存在しているものなのであります。地獄を作りましょう、なんていう人はないでしょう。天界を作ってやろうか、という人もないでしょう、自然に天界が現われます。自然に地獄界が現われます。しかも、どこにあるかわかりません。これを本有常住というのであります。この本有常住の三身、仏は、自ら得たものであり、また来った仏であります。このように大聖人はおっしゃっております。

 

 前に小樽問答で、さんざんやられた邪宗身延派では十界勧請ということをいって、鬼子母神や狐などの雑乱物を拝ませていますが、仏教哲学からいえば、とんでもない間違いで、愚の骨頂であります。日蓮正宗の御本尊は十界互具の本尊というべきであって、断じて、そのほかの本尊は、拝んではあいならないのであります。

 

【自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり】

 自も我も、得た仏である、九界そのまま、われわれが本有のものであるということをおっしゃっているのであります。

 

【我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり】

 我は法身、仏は報身、来は応身、この三身即一身の仏は無始無終の古仏であります。それで仏の境涯は自得のものであります。だれかが作ったりするものではありません。自解仏乗ともいいます。あるいは、無師智ともいいます。その仏の境涯というものは、だれびとからおそわるものでもありません。ですから無師智と申します。

 

【無上宝聚不求白得之を思う可し】

 この上もない宝の珠とは何か。日寛上人は大御本尊なりと決定あそばしております。大御本尊以外に無上の宝はありません。ですから、無上の宝聚を求めずして得たり、これを思い合わせて考えなさいというのであります。

 

【然らば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり】

 顕本遠寿ということはどういうことでしょうか。寿量品といいますものは、永遠の生命観を説くものであります。これはあらゆる他の経文にはないというのであります。

 

【今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云】

 ですから、われわれが南無妙法蓮華経と唱えるのは自我得仏来の行者であるというのであります。すなわち三身即一という無始無終の古仏を、自ら自得なされたのは日蓮大聖人、ですから、法華経の行者と申し上げます。法華経の行者とは、そのへんにいる、きたない行者とは違うのであります。別しては、仏のことを指すのであります。総じては、われわれは日蓮大聖人の子供として、弟子として、家来として、同じく題目を唱える以上は、われわれも、自我得仏来の行者なりということができるのであります。