若見如来。常在不滅。便起憍恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之想。恭敬之心。是故如来。以方便説。比丘当知。諸仏出世。難可値遇。
【若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ち憍恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わじ。是の故に如来、方便を以って説く。比丘当に知るべし。諸仏の出世には、値遇すべきこと難し】
(文上の読み方)
もし釈尊が常にこの世に生きていて、人々が仏の教えはいつでも聞かれるからと思えば、わがままな心を起こし、まじめに修行しようとする気持ちがなくなってしまう。
また仏にたいする、ありがたい思いや敬う心はなくなってしまう。
このゆえに釈尊は方便を用いて生死を説きあらゆる仏にあうのはむずかしいことだと説くのであります。
(文底の読み方)
もし日蓮大聖人が常にこの世におわしますとするならば、わがままな心をいだき、仏法を怠りきらう気持ちを生じ、大聖人にありがたい思いや、大聖人を恭敬する心を生じない。
いつまでも大聖人を凡夫であると思って、その御命令も聞かなくなるであろう。しかして、大聖人が御本仏であることも永遠に知ることができず、仏道修行もせず幸福になれなくなる。
ゆえに大聖人は生命の本理に合して涅槃をされた。日蓮大聖人門下は、大聖人の御出世がなければ仏の境地を得ることができない、しかして大聖人の出世には、会いがたいのであると説かれるのであります。
(別釈)
これは一往と再往に読み分けなくてはなりません。一応、日蓮大聖人が今お出ましなされたとするならば、われわれは絶対的に歓喜の心を起こして、なんでもいうことを聞くと思うのであります。
しかしながら、日蓮大聖人御在世当時の人たちは、日蓮大聖人をどのように思ったでありましょうか。着られたものは木綿の粗末な糞衣、安いものを召しておられる。一度口を開けば、邪宗に執している人たちの耳に逆らう強言を、ずけずけといわれて折伏なさる。住まわれる家といえば、われわれでも貧乏な方の部類にはいるみすぼらしい小屋、お食事だって人一倍お質素なもの、それで、少しは偉いと思う人がいるかもしれませんが、少しも尊敬する気持ちを起こす人がいないではありませんか。
仏に会うことは、非常にむずかしいことであります。ゆえに、恭敬の心を起こすのであります。われわれは大聖人にお目通りできたら、なんたる喜びでありましょう。しかし、お会いできない悲しみは、これほどのものはありません。しかし、幸いにも大聖人が南無妙法蓮華経と唱えられて七百数年目の現在、大御本尊におめにかかって、広宣流布途上にある、わが身の幸いを、心から喜ばざるをえないではありませんか。
また立ち場を変えて、われわれの生命が、常住にして滅せずとみるならば、窮屈な自己向上に努めるわけはないから、ひどい状態になるのであります。しかし、死という問題があります。これによって、生命を大事にし向上心も起こるのであります。人間に生まれることはむずかしいゆえに、生をうけた、この生命を粗末に扱っていいでしょうか。
また、このわれわれの生命の中には南無妙法蓮華経という仏界があります。その仏界も見ることなくして、そのまま死んで行ってしまうとは、哀れなものであります。わが生命を尊しと思うならば、わが生命の中にある仏の生命に相会わなければなりません。わが生命の中にある如来こそ、日蓮大聖人であります。
しかして、大聖人の顕わされた大御本尊を信じてこそ、われらの仏の生命が、顕われるのであります。ゆえに、仏法にあうことは難く、仏法の中でも正法にあうことは、また難く、正法の中においても、この大御本尊にあうことは特に難い、この正法中の大正法であります、大御本尊にお目にかかれた、わが身の福運を感謝すベきであります。