諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。然今非実滅度。而便唱言。当取滅度。如来以是方便。教化衆生。
【諸の善男子、我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり。然るに今、実の滅度に非ざれども、而も便ち、唱えて当に滅度を取るべしと言う、如来、是の方便を以って、衆生を教化す】
(文上の読み方)
すなわち、常住不滅であるこの生命は、どうしてできたかといえば、教相の上からいきますと、釈尊が五百塵点劫というときに仏を感じたのは、もと菩薩の道を行じて、生じた生命であるといっているのであります。
この文を一応教相に約して、五百塵点劫第一番成道の釈尊が、成道の前に菩薩の道を行じたというのは、何を修行して菩薩の道を行じたのかといえば、南無妙法蓮華経を修行したのであります。
ゆえに三大秘法抄(御書全集一〇一二ぺージ)にいわく「実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」云云と。
この時に成ぜしところの寿命は今まだ尽きていないという、のみならず、この寿命が永遠に向かって上の数に倍している、すなわち五百塵点劫の数に倍して永劫に住するというのであります。しかるに、それにもかかわらず釈尊は途中で死ぬという現象を生ずる。これは衆生を教化していく方便なのであります。毎日の生活において夜寝なければならぬように、死がなければ困るゆえに死があり、永遠の生命からみれば、この死は方便であるというのであります。
(文底の読み方)
ここに日蓮大聖人におきましては、我本行菩薩道という菩薩道とは、何ものぞやというのに、ただ南無妙法蓮華経しかないのであります。この本因の菩薩道に五十二位あるのでありますが、そのうち本因初住の文底に南無妙法蓮華経が沈んでいるのであります。ここが、他宗の人々のいうことと異なるのであります。我本行菩薩道の文底にあるのではない、我本行菩薩道の本因初住の文底に南無妙法蓮華経が秘し沈められているのであります。
観心より拝すれば、総勘文抄(御書全集五六八ぺージ)にいわく「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」云云との御内証と拝すべきであり、このとき感得せられた御本仏は無始無終であらせられます。
日蓮大聖人も滅度(死)したもうが、本有常住の涅槃であらせられます。生命のありのままの状態であります。
しかして、ほぼ釈尊が永遠の生命を寿量品で喝破し、これほど真剣に最後の最高学説を述ベているのでありますが、この文上の教えはわれわれには功徳がないのであります。
大聖人は大御本尊を末法の衆生に建立なされ、この南無妙法蓮華経の御本尊を拝めば、この哲学がわかるとおおせられております。大聖人の哲学の方がずっと奥深いのであります。
(別釈)
仏教にかぎらず、宗教は、われわれの生命や生活を対象とした学問であります。この信心の根底となるべき学問を宗教哲学といいます。たとえば同じ人間でありながら、なぜ差別があるか、または、この悩み、不思議を究明して、いかに生きたらよいかということなどを探究するのが宗教哲学の一部であります。しかし法華経寿量品の哲学になると、さらに深く探究して根本をえぐって、人間の生命は永遠であると説く、さらに永遠でありながら、なぜ死ぬかという生命哲学上の大きな矛盾、もっとも大きな疑問を、根本的に解決したのが寿量品であります。
そして、それでは、どうしたらわれわれが幸福になれるかを、あますところなく説いているのであります。しかし同じ寿量品といっても、釈尊の時代に功徳のあった寿量品と、現代のわれわれに偉大なる生命力と幸福を与える大聖人の寿量品との二つがあり、天地雲泥の相違があります。
前にも申し上げましたが、我本行菩薩道所成寿命の文を、教相の上からいきまして、三妙合論のうちの本因妙というのであります。前にも説明しましたように、我実成仏已来・無量無辺・百千万億・那由佗劫は本果妙、我常在此・娑婆世界・説法教化が本国土妙、今のところが本因妙、この経文において、三妙が合論されているというのであります。