南無妙法蓮華経如来寿量品第十六
日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法の相違は、厳然たるものであります。その要が、どこにあるかと申しますれば、御義口伝が一番明らかであり、肝要であると思います。
御義口伝とは、日蓮大聖人の法華経講義の口伝書であります。第二祖日興上人がお認めになった御書であります。血脈抄と同じく文底の仏法を説かれているのであります。
御義口伝巻下(御書全集七五二ページ)寿量品廿七個の大事の書き出しに「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」とあります。これがこの方便品寿量品講義の根本であり、しめくくりになる文であります。
釈尊の説いたものは「南無」の字がなくて「妙法蓮華経如来寿量品第十六」であります。それでは、なぜ日蓮大聖人が、ここに「南無」とおつけになったかということでありますが、これが肝要なのであります。「南無妙法蓮華経如来……」ときたときには、この「如来」が、南無妙法蓮華経の如来になるのであります。すると、これは文底の仏になる。妙法蓮華経如来寿量品の如来は文上の如来になる。この日蓮大聖人の御読みになっている如来は文上の如来ではない。こういうこ
とが、はっきりいたします。
「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」となっていますから、如来の本体は何かといえば「南無妙法蓮華経」になってしまうのであります。ここが南無という二字をおつけになっただけで、如来という二文字の読み方が、全然変わってくるのであります。
「寿量」ということは、その如来の功徳を量ることですから、文底の功徳をあらわすことになります。ですから「汝等諦らかに如来秘密神通の力を聴け」という如来が、南無妙法蓮華経にあたることが明々白々になってくるのであります。ここの御義口伝を読み切るならば、邪宗の誤りは、はっきりするのであります。
ですから、この見出し一つが、重大なる、日蓮正宗と邪宗との相違になる御文であります。
【文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと】
ところで、今読んだところは、天台の立ち場から、総じてと別してとに分けて、いっているのであります。
総じていえば、天台の立ち場から如来というものを説明している。それによれば、如来とはあらゆる仏の総称であります。なんの仏でも如来といい、二仏・三仏・本仏・迹仏・三世十方の仏を如来というのだといっております。
別しては、本地三仏すなわち法華経文上における、釈迦如来と多宝如来と十方分身の諸仏を、別して三仏といって仏と立てるのだという意味であります。
けれども「御義口伝に云く」となると、日蓮大聖人の教えで、天台とは違う、ということになります。そこが大事なところであります。
【御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり】
日蓮大聖人の御身に当たる大事とおおせられるわけには「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」なのですから、南無妙法蓮華経の如来でなければ、如来ではないと立てられるという辺にあります。その南無妙法蓮華経という如来を上行菩薩がうけとられ、上行菩薩の再誕として日蓮大聖人がひとまずお生まれになり、その如来を建立されるのであります。
すなわち、三大秘法そのものが南無妙法蓮華経如来寿量品になってくるのであります。ですから、日蓮大聖人の御身に当たる大事、南無妙法蓮華経如来寿量品第十六とお認めになったのであります。
【神力品の付属是なり】
神力品において「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て、宣示顕説す」という三大秘法の依文が出てまいります。この如来は、どういう如来かといえば、南無妙法蓮華経如来寿量品の如来であります。
ただ、その辺にいる仏とは全然違うのであります。また、寿量品に説かれた五百塵点劫第一番成道の如来ではないのであります。
南無妙法蓮華経如来寿最品の「如来の一切の所有の法」その三大秘法が神力品にきちっとあるのであります。
その寿量品の如来の行動を、説き明かしたのが神力品なのであります。
【如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり】
ここで、今度は、これは文底下種の差別をたてるのであります。如来とは釈尊、惣じては十方三世の諸仏でありますが、しかし、別しては文底の無作三身如来すなわち末法の御本仏たる日蓮大聖人であるといって、これは種脱相対の説法になってくるのであります。
【今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり】
さらに今度は惣別を立てて、如来を説いております。如来とは惣じては一切衆生であり、別しては日蓮大聖人の弟子檀那が如来であります。しかし、その中にも、さらに惣別が立て分けられております。
【されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり】
無作の三身というのは、誰もつくったものではなく、生まれてきたそのままの人自体、末法の法華経の行者が無作三身であります。ここでは日蓮大聖人御自身のことをいっておられるのであります。
【無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり】
無作三身の宝のことを、南無妙法蓮華経というのだというのであります。すると、前の南無妙法蓮華経如来寿量品の如来に、きちっとかかってきているのであります。
【寿量品の事の三大事とは是なり】
これが三大秘法の根幹であるというのであります。
このように、如来寿量品の如来をば文底の仏であると、しっかり胸にふくんで、講義を読んでもらいたいと思うのであります。