舎利弗。如来知見。広大深遠。無量無礙。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法。

 

【舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量、無礙、力、無所畏、禅定、解脱、三昧あって、深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり】

 

(文上の読み方)

 舎利弗よ、仏の知見は、智慧は、非常に広大で、時間的にも非常に遠いものであり、はかることができないほどであります。また四つの無量心や、四つの無礙智(仏の智慧の通達自在でなんらさわりがない)をもち、仏の十力をそなえ、師子王のごとき畏るるところなき力を有し、心が一所に定まって不動で、深く思考し、ある悟りの境涯にあり、一層深く入り、なんらとどこおりがない、そして、いまだかつてあらざる法を成就したのであります。

 

 この方便品は、法華経の迹門でありますから、迹門の仏であっても、これだけの境涯になると一応はいっております。しかし、法華経迹門の一切未曾有の法を本門文上の五百塵点劫に成仏した仏から見れば、ごく低い法になります。まして文底下種の大御本尊から見ますれば、全然低いものだということがはっきりするのであります。

 

 いまだかつて有らざる法を成就したといいますが、迹門の仏の分際においては、南無妙法蓮華経の境涯がわかるものか、わからないのだと、打ち破っているのであります。

 

(文底の読み方)

 しからば、末法下種の御本尊はどうかというのに「これらの力が御本尊にもあります」こう説けば、この前に話した借文で、この方便品を借りて、御本尊の御境涯を説くことになります。だが、この力は大御本尊には、もちろんあられるのでありますが、これだけかといいますと、迹門の仏の持っているこのくらいの力のものではありません。どれだけ違うかといいますと、天地雲泥というほどの恐ろしい違いがあるのであります。そこが、御本尊と迹門の仏との違いであります。

 

 われわれは、なんらの苦労もなく、無上宝聚不求自得と申しまして、大御本尊を求めずして得たのであります。われわれは、何も大御本尊を求めたわけではないのに折伏を受け「いやだ、いやだ」というのに、やらされてしまったのでしょう。そうして得たところの御本尊を、われわれはただ受持するだけで、この御本尊のおおせどおりお経をあげ、題目を唱え、そうして折伏して、どうなるかといえば、三世の諸仏の功徳を、全部、譲り与えられるというのであります。

 

 迹門の仏は、これだけの力があるといっているだけであります。大御本尊は、仏の因行果徳の二法をば、この仏の力以上のものをば、求めずして、われわれに与えるぞという力を持っていらっしゃるのであります。大御本尊の左の肩を拝み奉りますと「福十号に過ぐ」とあります。この迹門、本門文上の仏のことを十号というのであります。われわれが御本尊を受持して賛嘆する、その福運は、この迹門、本門の十号の仏にまさるのだとおおせられております。ここに、この迹門の釈迦仏と、大御本尊の御力の相違があります。

 

 ですから、われわれは、十力だとか、四無礙もいりません。

 

 これは文底へくると逆になってまいります。われわれの知見が広大深遠でなくてもよいのであります。この仏が持った功徳より以上の功徳を、われわれは受けるということになっているのであります。何も求めずして得たる御本尊によって、ただ受持して信心することによって、それだけの福運をうけるのでありますから、文底の仏と、この迹門の仏と比べれば、天地雲泥の差があることは、はっきりすると思います。

 

(別 釈)

 次に無量、無磯、力、無所畏、禅定、解脱、三昧という言葉の文上の意味を申し上げます。

 

 無量、それは四無量心といいまして四つあります。慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心といいます。慈無量心とは、

慈、すなわち人に楽しみを与えることを、無量というほども仏は持っておられるのだということであります。悲無量心とは、人の苦しみを除く力が、無量であるということであります。喜無量心とは、願いにしたがって歓喜を得させることが無量であるということであります。捨無量心とは、煩悩を捨て、憎まず偏愛しないということが無量であるということであります。これが迹仏の境涯だというのであります。

 

 無礙にも法無礙、義無礙、辞無礙、楽説無礙という四無礙智または四無礙弁があります。

 まず法すなわち説法の内容において無礙であります。無礙とは仏の説くところのものが、通達自在でさわりがなく、よく人の心に入り、よく理解させうることであります。義無礙とは、一切の義において、さわりがないことであります。辞無礙とは、仏が述べる言葉が適切で、さわりがないことであります。楽説無礙とは説法をすることに喜びを感じ、なんらの障りがないことであります。この四無礙の智といいますのは、例の落語で子供に長い名前をつけるのに「仏に四無礙というものがあって、辞無礙というのは言葉がなんでもよく話せるようになります、義無礙は色々の義に達することができるようになります」といって、辞無礙義無礙……と早口にいうのがありますが、そのことであります。

 

 その次は力でありますが、これは仏の十の力をいいます。

一、知是処非処智力 「是処と非処を知る智力」

 この処とは道理のことであります。是処とは因果の道理をよく知って解釈することであります。非処とは因果の理法を無視する考えであります。この区別をよく知ること、すなわち理非の道理がよくわかる力であります。

 

二、知三世業報智力 「三世の業報を知る智力」

 一切衆生の三世の業縁果報を知る。われわれが過去にはどんなことをやり、今どんな果をうけているかということを、いっさい知る力が仏にあるということであります。

 

三、知諸禅解脱三昧智力

 「諸の禅解脱三昧を知る智力」禅とは、禅定で、心を一つに定めること、解脱とは悟りのことで、三昧とは一つの境涯に心を同じくすることで、同じような意味であります。その力をもっていることをいいます。

 

四、知諸根勝劣智力 「諸根の勝劣を知る智力」

 われわれの根には、肉体上の根と、精神的の根と、二つ立て分けておりますが、目、鼻、口、耳、皮膚、心、これを六根といっております。また五根といって、信、智見、精進、定念、念力の五つが、われわれの生命の動きの一つになっております。それらの、いろいろの機根を知る智力があります。

 

五、知種種解智力 「種々の解を知る智力」

 あらゆる人々の理解する力のていどを、仏は明らかに知っているのであります。

 

六、知種種界智力「種々の界を知る智力」

 仏はあらゆる人々の境遇を、それぞれ、こうだと知る智力をもっております。

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 あらゆる人々の行ないを見て、その人々が、どんな境涯になるのか、将来を明らかに知る智力をもっております。

 

八、知天眼無礙智力 「天眼無礙を知る智力」

 天眼をもって、衆生の生死、善悪の因をみるのに、とどこおりのない智をいいます。

 

九、知宿命無漏智力 「宿命、無漏を知る智力」

 衆生の宿命すなわち前世の生活を知り、無漏涅槃すなわち成仏の境涯になる道を知ることであります。

 

十、知永断習気智力 「永く習気を断ずることを知る智力」

 これは過去世の迷いの残っているのをなくす力であり、過去世の余習というものをなくすことを知る智力であります。

 

次は無所畏でありますが、これにも四つの無所畏があります。

 

一、一切智無所畏 

 一切諸法において、ことごとく知り、ことごとくみる仏智をもっておりますので、仏は大確信をもっていて少しも畏れはないのであります。

 

二、漏尽無所畏

 仏みずから一切の煩悩を断尽せりと知り、大衆の中において畏れないことであります。

 

三、説障道無所畏

 障道を説くに畏れず、彼は仏道を害すと分明に説く。われわれに色々な障りがあります。その障りを説いて、なんら畏るるところのない境涯であります。

 

四、説尽苦道無所畏「苦を尽くす道を説く無所畏」

 大衆の中に、無漏の苦道を説くに畏れず、われわれの苦しみをなくす道を説くに畏れないことであります。

 

 このように迹仏は、四無量、四無礙、十力、四無所畏、禅定、解脱、三昧というような境涯を完成して、一切畏れるところのない境涯に立っているのであります。

 

舎利弗。如来能。種種分別。巧説諸法。言辞柔輭。悦可衆心。

 

【舎利弗、如来は能く種種に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔輭にして衆の心を悦可せしむ】

 

(文上の読み方)

 舎利弗よ。そこで、この迹門の仏は、人々の因縁や欲望、教育のていど、生活というものが、みんな違っておりますので、種々に分けて、巧みに諸法を教えるのであります。その言葉は、柔輭で、みんなの心を悦ばしめるのであります。

 ですから、この迹門の仏は、まだ三乗をおびているということになります。

 

(文底の読み方)

 末法の御本仏であられる日蓮大聖人は「よく、種々に分別したり、巧みに諸法を説いたり、言葉をやわらかに、人々の心を喜ばせる」というような、なまぬるいことはいたしません。日蓮大聖人は、事の一念三千の御当体であられますから、久遠元初の御振舞いを、そのまま実行されるのであります。

 

 すなわち南無妙法蓮華経のただ一法のみを、弘められるのであります。

 

 また言葉は、やわらかでなく、厳父のごとき厳しさをもって折伏するのであります。南無妙法蓮華経を唱えなければ地獄におちるというのであります。みんなの心を喜ばせるどころか、おこらせてしまうのであります。しかし、信心にはいり大御本尊を拝んでいきますと、人生のあらゆる諸法を巧みに説いて下さるのであります。また言辞もやさしく功徳をいただくゆえに、喜ばしくなってくるのであります。

 

(別 釈)

 末法の仏法になりまして、文底深秘の仏となれば、種々に法を分別いたしません。ただ人法一箇の御本尊を拝んで南無妙法蓮華経といいなさいと、それだけであります。迹門の境涯だから分別するのであります。巧みに法を説きようがありません。

 人々の心を喜ばせない、聞いたトタンには喜ばないでしょう。日蓮正宗の信心をした人で「南無妙法蓮華経といいなさい。御本尊を拝みなさい。それで救われるのですよ」といわれて「ああ、そうですか。ごもっともだから、やりましょう」と喜んでやった人がいますか。「冗談いうな。そんなもの、やっていられるか」と反対し、そして、ひどい目にあってから「やってみようかな」やってみたら「だんだんよくなってきた」というようなものであります。信心してまいりますと、結局、衆心は悦可するわけであります。

 

 文底深秘の大法においては、その方法を分別したり巧みに法を説いたりはいたしません。その法に進むことによって、衆心が悦可してくるのであります。信心を、しっかりやってごらんなさい。十年目には、もう全部変わるのであります。

 しかし性格が変わるのではありません。どういうものか、性格は同じなのであります。ケチな人は、どこまでもケチなのであります。ちょうど川があり、そこに泥水が流れているといたします。飲むこともできない汚い水なのであります。それが十年間に、川の形は同じでありながら、もう清浄きわまりない水が流れるようになります。それと同じように、われわれの五体の中にもっている性格は変わりません。 

 

「あなたは信仰して、十年も二十年にもなるのに、そのペチャンコの鼻はなおらないのか」といってもダメであります。

 ペチャンコの鼻は、どこまでいってもペチャンコであります。

 しかし、その人に流れている生命が、実に浄らかな生命になるために、皮膚といい、目のようすといい、一つ一つの動作といい、皆、なんといいましょうか、柔和な、清浄なものを、それでいて威厳のあるものをもつようになるのであります。

 

 それが大御本尊の功徳であります。そうなってきますと、悦可衆心、われわれの心を悦ばしめてきます。そうなった人は、いつでも晴れ晴れしいので、悦ばざるを得ないのであります。うれしくなって、いつでも笑っていなければならなくなってまいります。いつでもニコニコして朗らかですから、その人が商売すれば繁盛してまいります。同じ買うなら、あの奥さんのところへ行って買おう、ということになります。「あのオヤジさん、鬼熊みたいな顔をしているが、なんとなく、ひきつけられてしまう」というようになります。会社へ勤めていれば、月給が上がって上の位についてしまいます。独身者なら、いいお嫁さんがくるということになります。それが悦可衆心になるのであります。迹門の仏と、文底深秘の仏とは、それほど違います。

 

 舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。

 

【舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり】

 

(文上の読み方)

 そうして、舎利弗よ、要を取ってこれをいえば、肝賢要をいうならば、無量であって無辺であるところの未曾有の法をば、仏はここに完成した、そういう境涯を得たというのであります。

 

(文底の読み方)

 そして、要をとっていうならば、末法の御本仏日蓮大聖人は、迹門の仏も本門文上の仏も弘めない、いまだかつてなかった法、すなわち文底深秘の大御本尊を御建立あそばされたのであります。