舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
【舎利弗、吾れ成仏してより已来、種種の因縁、種種の譬喩をもって広く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して、諸の著を離れしむ】
(文上の読み方)
そこで、迹門の釈尊が舎利弗に向かっていいますのには、舎利弗よ、自分は仏になってより以来、人生とは、生命とは、こういうものである、あなた方の今、貧乏しているのは、こういうわけである、あそこの人が病気で苦しんでいるのはこういう理由であると、いろいろの因縁を説き、いろいろの譬喩を説いて、広く経文を述べて、仏法の大哲理というものを教えてきました。また無数の方便を用いて、多くの衆生に教えて、不幸の原因となるという、もろもろの執著を離れさせてきたというのであります。これは迹仏の仕事であります。
日蓮大聖人の仏法では、執著を離れるのではなく、明らめるのであることは、後に述べます。
(文底の読み方)
文底から拝すれば、舎利弗に告げてとは、われわれ末法の衆生に対して、おおせられるのであります。吾れ成仏してより已来の吾は、日蓮大聖人すなわち御本尊を指し、已来とは久遠元初已来、すなわち無始無終をさすのであります。日蓮大聖人は、釈尊が第一番に成道した五百塵点劫のもっと以前から、すなわち初めがない久遠元初から、種々の因縁、種々の譬喩を説かれてきたのであります。
種々の因縁とは、われわれは久遠元初において、御本仏日蓮大聖人の眷属であったという因縁がありますゆえに、今末法に日蓮大聖人の弟子として、苦悩に沈むこの敗戦国日本に、日蓮大聖人滅後六百何十年かに貧乏人と現われて、この御本尊を信じて金持ちになるという姿をみせるのであります。この南無妙法蓮華経の仏法を弘めて、三災七難におびえる日本の国に広宣流布をするという約束をしてきた因縁を思い出したならば、貧乏などという悩みはいっぺんに解消するのであります。
譬喩とは、七百年前、日蓮大聖人御在世時代の強信者が、死身弘法に励み、功徳をうけきっている姿を示すのは、われわれにとって譬喩であります。
広く言教を演べとは、広く南無妙法蓮華経の御本尊を弘めることであります。
無数の方便とは、末法の仏法では、正しい方便は、ただ利益と罰の二つの方便であり、無数といいますならば、日常生活のあらゆる状態が無数の方便になります。御本尊は、この利益と罰の二つの方便をもって、末法の衆生を引導なさるのであります。
諸の執著を離れしむるとは、先ほども申しましたように、方便品は文底仏法からみれば三段低い文上の迹門でありますから、このように説いているのですが、執著を離れて人生はあるべきはずがありません。これは御義口伝(御書全集七七三ページ)の薬王品の項に「離の字をば明とよむなり」とおおせられているように、諸の執著を明らかにすると読むべきであります。
日蓮大聖人は御義口伝において、法華経の文字を、一か所だけ変えておられるのであります。
われわれには、みな執著があります。執著がなかったら、人間ではなくてお化けであります。執著がなかったら、この世の中はバラバラになってしまいます。政治も、経済も、教育も、文化も、なくなります。学校の先生が、教育に執著がないから勤務にいかないとしたら、大変でしょう。執著を執著として明らかにみればいいのであります。その執著を明らかに見させてくれるのが御本尊であります。
みんなに執著があるから、味のある人生が送れるのであり、大いに商売に折伏に執著し、われわれの信心で、その執著が自分を苦しめないようにし、自分の執著を使い切って、幸福にならなければならないのであります。
(別釈)
「因縁と譬喩」釈尊は法華経以前に説いた四十二年間の小乗教や権大乗教に、色々の因縁や譬喩を説いて衆生を教化してきたが、法華経の迹門にも因縁や譬喩が説かれております。
法華経の迹門は序品第一から安楽行品第十四までの十四品であります。迹とは本に対してかげということであります。
この迹門ではわれわれ人間というものは、三乗といって、菩薩になったり、縁覚になったり、声聞になったりするのが人生の目的ではなくて、一仏乗すなわち仏になるのが目的だと説いております。説かれた順に声聞の弟子が、次々と成仏を許され、授記を受けますが、それを三周の声聞といいます。
まず第一番目に方便品では理論を説きます。これを聞いてわかったのが舎利弗等で、これを法説周といいます。
機根が未熟で、わからなかった人には、種々の譬喩を説くわけであります。譬喩とは、先ほど述ベました窮子の譬えなどが、それであります。その他、火宅の譬えなどもあります。この譬えを聞いて領解したのが、神通第一の目犍連(目連)、頭陀修
行第一の頭陀迦葉、論義第一の迦旃延、解空第一の須菩提等であります。これを譬喩周(喩説周)といいます。
それでもわからないものには、因縁を教えます。どんな因縁かといいますと、たとえば、このような話もあります。
釈尊が五百の弟子を連れて、この隣の国に弘教のために行こうとして出かけました。ところが、そのときに、五百人の弟子が、みんな王様に、押し込められてしまいました。そして、毎日、百日間というものは、馬の食べ物、燕麦ばかり食ベさせられました。みんな、へこたれていたときに、釈尊は、こういうことをいいました。
「あなた方が麦を食うのは、助かっているのである。なぜかといえば、昔、あなた方は、この山で山賊をやっていた。ところが食べ物がなかったときに、ここに一人の法師がおられて、その法師が病気をしていた。その法師に食べ物を、小僧が村里からもらってきたときに、あなた方はそれをとって食ベてしまったのである。その因縁をもって、あなた方は、ここに百日の間、燕麦を食べなければならない」と。
これは因縁を説いたものであります。しかし短い因縁です。だから、これは所破、破るために読むわけであります。こん
なのは、小さな因縁であります。たとえば、この世で、われわれが、どうして、このように貧乏しなければならないか、それは過去世で泥棒をしたからだと説くのが、通途の仏法といいまして、釈迦仏法なのであります。
前に述べましたが、文底の因縁は、そんな低い因縁ではないのであります。とにかく、化城喩品で大通智勝仏以来の因縁を聞いて成仏したのが、説法第一といわれた富楼那等で、これを因縁周といいます。
「諸の著を離れしむ」とは、先に述べましたごとく、文底の仏法では「諸の著を明らめしむ」と読むべきであります。
釈迦仏法においては、いろいろの執著は発展を妨げるものとして、阿羅漢や縁覚の境涯になるのに執著を断ち切る修行をしたのであります。しかし、末法における日蓮大聖人の仏法では、意味が違ってまいります。
末法今時においては、執著を離れてはいけないのであります。日蓮大聖人は、御義口伝の薬王品の項に「離の字をば明とよむなり」とおおせられているように、執著を離れさせるのではなくて、執著を明らめて使い切る境涯になればよいのであります。すなわち、みんなに執著がありますから、味のある人生が送れるのではないでしょうか。商売に執著がない、夫や妻や子供に執著がなくなったというのでは、世の中がばらばらになってしまいます。
昔、山の中から出てきて巨額の金を積み、またあおとの泣き別れで有名な塩原太助が、商売で小判を手放す時に、ていねいに小判を拭いて撫でながら「おまえ、また帰ってこいよ。はいッ」といって、渡したといいますが、そのくらいの執著がありますから、百万両もためることができたのであります。
ところが、煩悩と同じように、この執著に使われてはダメだと思うのであります。たとえばタバコでも、一日に四十本も五十本も吸う、しまいには、おいしいどころか、頭がフラフラ嫌気がさします。これではだめで、最初の本当においしい二、三本でやめる。これが執著を使い切っているということになります。
「この執著は、この程度で、やめなければならないか。いや、これは思い切って執著してゆかなければならない」「この執著をするには、こういう理由があるのだ」と、明らかにみてゆけば、執著がいくら強くても、執著を捨てる場合にしても、はっきりしてまいります。
ただ、なんでも執著を離れるという教えは、末法の仏法にはないのであります。インドあたりの、まだ低級な思想のときには、こういう教え方も必要であったかもしれませんが、末法今日では、この教えは通らないのであります。本仏と迹仏との相違、教相の読み方と観心の読み方の相違を頭において、ここを、読まなければならないと思います。
所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。
【所以は何ん。如来は方便、知見波羅蜜、皆已に具足せり】
(文上の読み方)
これは、どういうわけかといえば、仏はどうやったら、衆生を導いて、しあわせにしてやれるかというてだて、すなわち方便の波羅蜜(三つの方便を明瞭に知りいっさいに通達する仏の境智)や、智慧をもって人々を救う知見波羅蜜を、みなことごとく具足して、それをもって人々を救っているというのであります。
(文底の読み方)
文底の意味において、まず所破として読むならば、この仏は迹門の仏でありますから、末法御本仏の文底、事の一念三千の御本尊の力などは具足しているわけがないのであります。
しかし、これを文底の仏すなわち大御本尊と読むならば、真の方便、知見波羅蜜をことごとく具足しているのであります。
日蓮大聖人は観心本尊抄において「ただ南無妙法蓮華経と唱えるだけで、この迹門の仏、本門の仏、権教の仏、それらの仏の因行果徳の二法が、ことごとくわれらの体にそなわる」とおおせられているのであります。この具足は、権教、小乗教、迹門の仏、本門の仏の因行果徳、あらゆるものの具足を意味しております。ですから、大御本尊のことを、輪円具足、あるいは功徳聚とも申します。
功徳のあつまりですから、あらゆる仏の幸福、原因、結果を具足していらっしゃいます。ですから、病気をなおしたいときには、われわれに病気のなおる原因がなくとも、御本尊を拝むことによって、その原因がえられて、病気がなおるという結果も得られるのであります。