所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。
【所以は何ん。仏曾て、百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞こえたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解し難し】
(文上の読み方)
そこで、先ほどのように、ひとまず文上読み、すなわち釈迦仏法の読み方をいたします。
「所以は何ん」とは、前にあなた方には諸仏の智慧はわからないといったのは、どういうわけかということであります。仏は今までに百千万億無数の諸仏に親近したというのであります。釈迦仏法では歴劫修行といいまして、仏になるのには、あらゆる仏に仕え、非常に長い間修行して仏になるのであって、すぐには仏にはなれないのであります。文底の仏法すなわち日蓮大聖人の仏法は、多くの仏にあう必要などはなくて、すぐに御本尊を信じて即身成仏する、直達正観の仏法であります。
釈迦仏法の歴劫修行というのは、たとえば一生の間、布施行を積む。この次に生まれたら、また布施行をする。それが終わると、忍辱の行を同じように何回も生まれては、やりつくす。このようにして、あらゆる仏に親近して、測り知れないほど多くの修行を積み、またその修行に勇猛精進するわけですから、その名前はあまねく十方仏土に聞こえたというのであります。
甚だ深くて、未だ曾てなかった、すばらしい法を成就したといいますのは、仏の境涯を得たということであります。その結果、仏として宜しきに随うといいますのは、相手の心に随っていろいろと法を説くことであり、意趣は悟りがたいといいますのは、釈尊がその法を相手の機根に応じて説く、その心が舎利弗等にはわからないということであります。なぜならば、根本に法華経をおいて説いているから、わかりがたいというのであります。
(文底の読み方)
ところが文底から読みますと、南無妙法蓮華経の境涯は、こんなものではないのであります。なぜかといいますと、最高の仏法がこの文底下種法門で、次が法華経文上脱益の本門、その次が法華経文上熟益の迹門となるわけでありますから、この文上の方便品は、文底下種法門と比べると三種の劣になるのであります。迹門の仏は百千万億の諸仏に親近して修行しましたが、文底の御本尊はどうかといいますと、釈迦仏法のごとき歴劫修行はないのであります。ただ南無妙法蓮華経とお唱えあそばされており、またそれ自体が御本仏の御振舞いなのであります。この文底の諸仏の御許に親近しないで、逆にあらゆる諸仏が、南無妙法蓮華経を師匠として仏になられたのであります。
ゆえに文底から読みます時には、南無妙法蓮華経という仏(御本尊)は、百千万億の諸仏を出生した能生の根源でありますから、所生の側、すなわち拝む方の側からいいますと、われわれは、なんの難行苦行もなく南無妙法蓮華経と唱えているだけで、百千万億の諸仏に親近した以上の功徳があります。また、それが諸仏の無量の道法を尽くしたことになるのであります。
勇猛精進というのは、この御本尊を受持して題目を唱えることであります。
名称普く聞こえたまえりとは、われわれが御本尊を受持しているということは、あまねく十方仏土の梵天、帝釈、日月、大明星天、天照太神、正八幡大菩薩、鬼子母神、普賢菩薩、妙音菩薩等、あらゆる菩薩方にあまねく名前が聞こえているということであります。
御本尊を受持し、信心を熱心に勇猛精進する人は地涌の菩薩でありますから、十方世界に名前が聞こえるのは、当然であります。ゆえに諸天善神の加護があるのも、また当然中の当然であります。
甚深未曾有の法を成就したといいますのは、文底下種の大御本尊を、わが己身のうちに打ち立てたということであります。
末法の御本仏は、法は南無妙法蓮華経、人は日蓮大聖人という人法一体(人法一箇)の大御本尊でいらっしゃるのであります。
宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難しといいますのは、御本尊がわれわれの悩みに応じて説いて下さるところの御心も、われわれには、わかりにくいというのであります。
たとえば「こんなに拝んでいるのに、うまくいかない」とか「この商売をやっていても、どうもうまくいかないから、商売がえをしょう」といっておりますけれども、信心をしっかりやったために、商売をやったら、よく、もうかってしまった、そして「早くやれば良かった」ということになるのであります。
牧口初代会長も、次のようなことをいわれました。「バカの智慧というものはあとから出る。だから、わからないから
といって、ぐずぐずいっていないで、信心だけはしっかりしていなさい。仏様のお心なんかわかるものではない」
仏は先を見通しであられるし、こちらはお先は真っ暗で、過ぎ去った後の方だけ見通しなのでありますから、御本尊のお心はわれわれには悟りがたいというわけであります。ただまっしぐらに、御本尊を、どんなことがあっても、信じてやっていけばよいのであります。そうすれば、必ず功徳がでます。途中で疑ったらだめであります。一切法これ仏法なりと知ることを、名字即の仏というのでありますから、なんでも仏法だと考え、御本尊中心に、ひたすら信心に励み、商売にも励むことであります。
(別釈)
われわれが御本尊を受持して信心するということは、これは受持即観心と申しまして、観心本尊抄講義録に詳しく書いてありますから、ごらんください。御本尊を受持して題目を唱える、そのことが百千万億の諸仏に親近して得た功徳の何億倍になるのであります。これは日蓮大聖人が、観心本尊抄で、この無量義経の十功徳品の中から、第七の功徳を引きまして「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」という言葉を引用されておおせられております。
いかなることかといえば、南無妙法蓮華経を受持し信心(観心)するものは、なんの修行をしなくても、六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅、智慧の六行)の修行をしなくても、それを行なったと同じ功徳があらわれるというのであります。そして小乗の仏、権大乗の仏、あるいは迹門、本門の仏の因果の功徳を、全部こちらにいただけるのであります。
釈迦仏法の歴却修行のように、これから何千万年も生まれてくるたびに、非常に苦労をして、法華経の提婆達多品にあるように、阿私仙人の足をもんだり、腰をもんだり、薪を取ってきたりして、一千年も仕えて、その功徳によって仏になるというような修行を、今末法の世の中にやっていられるものですか。そこで、日蓮大聖人は、末法では、こんな方便品にあるような修行ではだめだ、御本尊に向かうて南無妙法蓮華経と唱えれば、ここに仏になる因行果徳の二法を譲ってもらえるとおおせであります。何千万年も修行してきた方便品の仏達よりも、私達は、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と、たった一言唱えるのみで、仏になる修行ができてしまうのであります。