序品第一

 

 無量義経の説法が終わりますと、釈尊はまず序品第一で無量義処三昧にはいります。三昧というのは、心を一処に定めて動かさず一心に思索する状態であり、無量義というのは、無最義経の「無量義とは一法より生ず」ということを一心に思索しておられる。

 そうすると、このとき、天から曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華という華が降ってきて、地は六種に震動した。

 この瑞相に喜んで会座の人々が一心に釈尊を見ているうちに、釈尊の眉間からは白毫相の光りを放って東方万八千の世界を照らした。実に荘厳をきわめ、釈尊は何もいわない。

 その万八千の世界を、集まった人々が見ると、その国や、仏や、菩薩や、声聞や、縁覚や、人間界や、餓鬼道や、修羅等の世界が、みな、よく見える。これはいったい、何事であろうか、またこの理由を、だれに聞いたらよいだろうかと、弥勒菩薩や一切の大衆が、心に疑いを起こしたのであります。

 

 ところで、文殊師利菩薩は過去にすでにたくさんの仏に親近して供養しているということを思い出して、弥勒菩薩が代表して文殊にたずねたのであります。

 文殊師利菩薩がいうには「私は過去においてたくさんの仏にあい、このような瑞相にあいましたが、その後にはかならず仏は大法を説かれました。ゆえに今も衆生に難信の大法を聞かしめようと欲して、このような大瑞を現じたのでありましょう。

 

 過去世において、あるとき日月燈明仏という仏がおりまして、この仏には八人の王子がおられたのです。父が出家して成仏したことを聞きまして、みな王位をすてて出家しました。このときに日月燈明仏は大乗教の無量義・教菩薩法・仏所護念と名づける教えを説きました。その経を説き終わりましてから無量義処三味にはいり、そのとき今と同じような大瑞があらわれ、そのあとで日月燈明仏は無量義処三昧より立って、妙光菩薩に、妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名づける経を説いて、徳蔵菩薩に授記し終わってから涅槃にはいられました。

 仏の滅後に妙光菩薩は、この法華経をもって人々のために説いたのであります。その弟子に、求名という者がいました。ところで「弥勒菩薩よ、そのときの妙光菩薩というのは他でもない、わが身(文殊師利菩薩)である。また求名菩薩は、誰かといえぱ弥勒おまえ自身ですよ」

 このように文殊菩薩はいって、この瑞相はそのときと異なりがないから、今の釈迦仏もかならず大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名づける経を説かれるに違いないといいました。

 

 ここで少しつけ加えますが「妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念」という言葉ですが、この仏所護念云云といいますのは、どういうことかといえば「この大乗経の妙法蓮華というのは、菩薩を教える法で、また仏の護念したもうところの経である。この妙法蓮華経は三世十方の仏が護り念じてきたものである」ということであります。

 

 菩薩というのは菩提薩埵と申しまして、自分では仏になろうと志して修行し、他の者にも利益を与えようとするものをいいます。

 

 しかるに霊友会や立正佼成会や仏所護念会、妙智会等で、仏所護念をどのように使っているかといえば、彼らは死んだ仏がわれわれを護ってくれる、それが仏所護念だといっております。冗談ではありません。

 

 仏といいますのは、死んだ人をいうのではなくて、三世十方の仏の意味なのであります。その真実の仏が護り念じてきたのが妙法蓮華経であるというのですから、ずいぶん、ひどいウソを教えるものでしょう。死んだ人が仏だというのならば、仏になるには、死ねばよいのですから、仏道修行はいらないことになるではありませんか。

 

 人間の生命には十の種類がある。カントの言葉を借りれば範疇ともいえます。この生命の範疇は、詳しく分ければ三千あります。これを一念三千といいます。大別すれば十法界といって、仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の十種がある。

 煩悶懊悩の境涯が地獄です。借金取りがきて、青くなるのや、病気で悩むのは地獄であります。

 餓鬼というのは、金が欲しい、物を食べたいといって悩む境涯であります。

 畜生というのは、目先のことしかわからないで、強い者にはペコペコして、弱い者にはいばるようなものであります。

 修羅というのは、おこっているときであります。それから心のねじくれているもの、物事を正しくみないで、ひねくれ根性のものであります。

 人界というのは、われわれの普通の平らかな境涯であります。

 天界というのは、喜びの生活であります。

 声聞、縁覚というのは、二乗といって、理論だけ求め、また自分だけ安心していれば、幸せであれば、それでよいというものであります。

 菩薩というのは、を救ってやろう、智慧を働かして助けてやろうという、他人の幸福をえる人が菩薩の境涯の人であります。

 

 次に、絶対の安心の境涯に立ちきった生活、その人の生活はいつも喜びにあふれ、誰人がこわそうとしても、こわすことのできない境涯、その境涯に立って永遠の幸福をつかみきった人を仏といいます。

 

 このような境涯が、死後の生命にもあります。三世の生命観は仏法の根幹であり、永遠の真理といえます。

 

 生きている現在のわれわれの生活は、毎日が六道輪回の生活ですから、死んでから誰でも絶対安心の世界になんかいけるわけのものではありません。これを阿弥陀経などは、釈尊の権の方便の教えですから、インチキを教えて、死んだら三途の川へ行って、そこで六文銭を払って、六道のいずれに行くか定まるなどということに六道を用いていますが、そんなものではありません。

 

 われわれの毎日の生活に、六道があるのであります。たとえば、朝起きて、すがすがしい気持ちで晴々としているときは天界であります。ところが次の瞬間には「ああ、腹が減った」と、なるのは餓鬼道であります。台所へ行ったら奥さんが、まだ御飯を作っていない、そこでおこれば、もう修羅界であります。今度は、こっちがやられそうになります。こわくなります。これは畜生界であります。それで、また夫婦仲なおりすれば、人界であります。この六つの道を、いつも回っているのが六道輪回であります。これが死後の生命にもあるわけですが、仏法の空観がはっきりしませんと、説明がめんどうになります。

 

 この十界が誤って用いられるようになりましたのは、念仏等の邪教の罪であります。といいますのは、念仏などをやっていれば、かならず不幸になって、地獄の境涯で死んでいきます。もちろん死相が悪いわけであります。だからといって「あなたのおじいさんは地獄へ行った」そういわれたら気持ちが悪いでしょう。それを「おじいさんは仏界へ行って、仏様になっていますから安心しなさい」と、おせじをいわれたら、やはり人間ですから、いわれた当事者の方は気持ちがよい。ですから仏の世界へ行った、仏になったという言葉が普通の通用語になってしまって、死んだら仏になるというような考え方をする、仏法に無知な日本人ばかりになってしまったのであります。このような解釈は、仏法哲学ではありません。

 

 ところが邪宗の霊友会、立正佼成会などが、人々の無知につけこんで、仏所護念とは、死んだ人が仏であるから、それを拝めば仏所護念で、その仏が護ってくれる、などというようになっております。

 

 これは実にとんでもない誤りで、大いに恐るべきことであります。なぜなら、彼らは人の戒名を書いてベタベタはりつけて南無妙法蓮華経と唱えさせます。すると、どうなるか

 

 境智冥合の力を出して、その戒名にあらわれる生命に感応いたします。死んだ人が地獄に行っているならば、こちらの生命が感応して自分が苦しみ悩むようになります。十五枚はったうち、十人地獄が手伝いにきたとする。これでは生活がメチャメチャになるのは当然であります。

 

 しかし、この原理がはっきりとみえるものならば、邪教は誰もやりません。これは哲学上思惟して、仏法原理によって定めていかなければならないがゆえに、すぐ、人にはわかりませんから、ノンキに恐ろしい邪教とも知らずにやっているわけであります。

 

 これは、脱獄囚すなわち牢を破って逃げた男を捕え、人の血を吸う虱をみつけたらつぶすように、人を憎むわけではなくても、こういった邪宗は、断じてつぶしてしまわなくてはならないのであります

 

 このように、妙法蓮華経
という、菩薩に教え三世十方の諸仏の護念したもう大乗教を説こうとするのであると、文殊菩薩がいいきって、今度は序品を終わって、いよいよ方便品にはいってくることになるわけであります。