南無妙法蓮華経とは

 

 南無妙法蓮華経、これが非常にめんどうであります。南無という意味は帰命ということであります。続けて全部読めば、南無妙法蓮華経とは仏の名前であります。南無妙法蓮華経とはどなたであるか。それは久遠元初自受用報身如来すなわち日蓮大聖人のことであります。それを、とくに、南無とは何か、妙法とは何か、蓮華とは何か、経とは何かということになりますと、これには一々に問題があるのであります。

 

 東洋哲学のあり方は演繹的であり、西洋思想は帰納的でありますから、帰納的な学問をやっている今の日本人には、法華経の原理はわかりにくいでありましょう。帰納的といいますのは、だんだん論義を組み立てて結論を下すやり方でありますが、東洋の哲学は、まず最高原理を決定しましてから説いてまいります。たとえば、釈尊は妙法蓮華経というものを定め、妙法蓮華経とはなんぞやと、説きおこしてくる説き方をやっております。

 

 像法の法華経たる天台は、摩訶円頓止観と決めまして、その円頓止観とは何物ぞやと説いてきます。

 

 末法の法華経たる南無妙法蓮華経は、まず南無妙法蓮華経という御本尊を決定する。そしてこの御本尊を受持することによって、己心の十法界を観ることができ、仏になることができ、絶対的幸福になることができると説明していくのであります。

 

 また科学と宗教の相違を考えますのに、科学にもせよ、芸術にもせよ、すべて研究対象があります。数量を取り扱う数学、政治のことを研究する政治学等でありますが、しからば、宗教はといいますと、これは生命を研究するものであります。仏法でも、同じく生命すなわち仏という生命、九界すなわち凡夫の生命をあますところなく研究し解明し、幸福生活の原理を確立されたのであります。

 

 ところが、今の宗教学者といわれる人達は、宗教というのは、単に修養のためにやるものだと思い込んでいる人が多いのであります。しかし、これはとんでもない誤りであります。

 

 宗教は生命を対象とする学問でありますから、われわれの生命生活をいかにすれば幸福にできるか、得があるかということを研究し実践するのが宗教であります。

 

 われわれが、朝に晩に題目を唱え折伏をせよといいますのも、生命に得があるからやりなさいというのであります。

 

 話が横道にそれましたが、しからば南無妙法蓮華経とは何かということについて、簡単に述べてみましょう。

 南無とは梵語であります。妙法蓮華経とは漢語であります。妙法蓮華経を梵語でいいますと、薩達磨芬陀梨伽蘇多覧となります。梵語の薩とは妙と訳し、達磨は法と訳し、芬陀梨伽は蓮華と訳し、蘇多覧は経と訳すのであります。

 

 南無とは、日本の言葉でいえば、帰命という意味であります。南無するとは、心も身もともに信じて捧げ尽くすというのが南無であります。

 その帰命する対象を本尊といい、これに人と法とがあります。

 人とは御本仏日蓮大聖人に帰命することで、法とは南無妙法蓮華経に帰命するのであります。

 

 また帰とは色法すなわちわれわれの肉体のことであり、命とは心法すなわちわれわれの心のことであります。

 

 日蓮大聖人は「色心不二なるを一極と云うなり」とおっしゃっております。

 

 われわれの肉体と心とは別々のものでは絶対にありません。肉体と心が一致しているところに、本当の生命の極致があります。 

 からだは会社で歩いているし、心は家にあるとなりますと、えらくめんどうになります。人間というものは、自分のからだのあるところと、心とが一致しなくてはなりません。それでも、なかなか一致ができない。その一致するところが、本当のわれわれの生命の状態であります。色心不二なる状態を南無というのであります。

 

 妙法ということは、考えられぬような不思議なことであります。妙は法性といいまして、悟りの境涯であり、法とは無明です。法性と無明が一体であるのを妙法というのであります。

 すなわち悟った境涯も、悟りのない境涯も、実体は同じだというのであります。そして、あらゆる現象は、みんな法界にあらざるなく、それが妙法であります。ですから、われわれの生命ほど不思議な妙法はないわけであります。つくづく生命の不思議さ、妙法なるを感ずるのであります。

 

 蓮華とは因果の二法であります。因果は倶時であります。これが蓮華の法であります。植物の蓮華は、華(因)と果(果)が倶時でありますから、蓮華の法の譬えにしばしば用いられます。

 

 因果倶時とは、瞬間の生命に因と果をそなえていることであります。すなわち、指先に火がふれますと「あつい!」と感じます。火がふれるのは因で、熱いと感ずるのは果でありますが、それは一瞬の因果であります。

 またおこると人相が変わります。おこるのは因で、人相の変わるのは果でありますが、これも一瞬の因果であります。

 

 われわれの生命は、あらゆる幸・不幸等の因果を瞬間にそなえております。また、われわれ九界の生命生活をしているものが、仏界である御本尊を拝んで幸福になるのも、九界即仏界、すなわち九界を因とし仏界を果とする因果倶時の法によるのであります。この「因果倶時・不思議の法」を妙法蓮華と名づけるのであります。

 

 釈迦仏法では、次のようなことを説いております。昔、インドに阿育大王という立派な国王がおりましたが、どんなわけで大王になったのかといえば、前世に徳勝童子という五歳の少年の時に、釈迦仏に砂の餅を供養したために、その功徳で大王になったと説かれております。徳勝童子の時の供養が因で、大王になったのが果であります。

 

 このように、通途の仏法では、その人の現在の境涯をみたならば、過去の因がわかります。また、その人の現在の行ないをみれば、未来の果がわかるという、因果についての仏法定理を説いております。

 

 さらに、日蓮大聖人の仏法では、妙法蓮華の法、因果倶時の法を説いているのであります。

 釈迦仏法では、今貧乏していて、はいる金よりも出る金の方が多いなどというのは、過去世において泥棒した罪によるものだから、来世において金持ちになりたければ、この世で人に施しをしなさいという立ち場であります。

 しかるに、日蓮大聖人の仏法では、それでは貧乏の宿業をもったものは一生貧乏でいなければならないというのは、可愛想であるからと、御本尊を顕わされたのであります。すなわち南無妙法蓮華経と御本尊を拝み、また折伏をしたとき、それは因になります。

 過去に何も金持ちになる原因のことをしていなかった、貧乏になる原因のことしか、していなかったにもかかわらず、過去に金持ちになる因を積んだと同じ因を積むのであります。果も同じですから金持ちの果になります。因果倶時なのです。

 

 これは観心本尊抄において、はっきりと説かれております。南無妙法蓮華経と御本尊を拝む。それによって、権迹本の仏の因行果徳の二法をお授けくださるのであります。

 

 ですから、権教の仏、迹門の仏、本門の仏に貧乏な仏がいないように、かならず金持ちになるのであります。仏の因と仏の果とが、御本尊を拝むときに、いっしょに具わるのであります。

 

 経というのは一切衆生の言語音声を経というので、われわれの話す声、犬の吠き声、みみずの鳴く声、それがみんな経です。「声仏事を為す之を名づけて経と為す」ともいわれております。これを開いていえば、あらゆる活動性は、ことごとく経になるわけです。

 

 ですから無明即法性、無明法性一体のもの、因果一体のものが活動する声、それはまた宇宙の生命活動、または衆生の生命活動となり、これを妙法蓮華経というのであります。

 

 また前にも申し上げたごとく、南無妙法蓮華経とは、法華経の行者の宝号でありまして、日蓮大聖人御自身の御生命であります。されば南無妙法蓮華経とは何かといわれたならば、末法御本仏の御名前であると申してさしつかえありません。

 つきつめていえば、日蓮大聖人の御命と断じてさしつかえないものであります。日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう。

 

 ですから、日女御前御返事(御書全集一二四四ぺージ)には、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」

このようにおおせられているのであります。